第892話・氏康、悩む

Side:北条氏康


「叔父上、如何思う?」


 下田からの急ぎの文を見て、それをそのまま急ぎ呼んだ駿河守の叔父上に見せた。相も変わらずよくわからぬ。それが本音と言えば本音か。


 伊豆大島の山が火を噴いた。その知らせはわかる。されど何故、北の蝦夷よりも先の地を目指して本領を出た久遠の船が、船泊りした大島の民をこちらまで運んで参ったのだ? 二千を超える大島の民を助けたというのか? 他家の民を?


「助けたと見て間違いないと思うが……、会ってみねばわしもよくわからぬ。良からぬ謀ではないとは思うがの」


 叔父上でもわからぬか。わしも良からぬ策とまでは思わぬがな。




 仔細を話したいと久遠の船に使者を出して参った者が久遠殿の奥方と聞いて驚いたが、その白き肌と髪にさらに驚かされた。とはいえ大内家の法要の際には格別の配慮で呼んでもらった。礼は尽くさねばならぬ。


「久遠一馬の妻。雪乃でございます」


「旅の途中ですまぬ。大島の様子と此度のこと聞きたくてな」


 ああ、久遠殿の奥方だというのがわかる。こちらに物怖じをせず、かと言うて威圧するわけでもない。


「勝手をして申し訳ありません。あのままでは多くの民が生きていけず、島の暮らしが途絶えるのではと思え、せめて人が生き残れば山が収まった後には島で暮らせるだろうと考えた末のことでございます」


「隣国が苦難しておれば兵を差し向けるのが当然。助けたという話はまず聞かぬ。如何にも久遠家らしいの」


 さて如何にしてその思惑を聞き出そうかと思案しておると、叔父上が上手く切り出した。やはり同席させてよかった。


「他ならぬ北条様の所領なれば。もう少し申せば、あの島は当家にとって、今の航路を維持するならば、替えの利かぬ島でもあります。島が使えなくなるのでは船の航路を以前のものに戻さねば、大きな障りがあります。以前の航路、北条様とのご縁も如何許いかばかりか遠くなりましょう。従って当家にとっても利になること」


 なるほど。ただ考えもなしに人の所領に首を突っ込んだわけでないのか。


「道理じゃの。我らにとってはあってもなくても困らぬ島であるがの。いかに南蛮船とはいえ陸があるほうがよいというもの」


「二千余ほどの民がおります。もし扱いに困るのでしたら、織田で借り受けて、尾張にて島が落ち着くまで食わせることも出来ます。さらに島に戻す時には暮らしが成り立つように助力も惜しみません」


 しばしじっと叔父上と雪乃という女の話を聞いておると、さらに思いもよらぬことを口にした。あまり頭の良くない女か? 己の不利になることをしゃべり過ぎだ。あの島がそれほど海の要所というのならば、隠して恩を着せるべきであろう。


「やれやれ、久遠はまた難しきことをするわ」


 女を下がらせると叔父上が困った顔をした。


「食わせることは容易い。されど一度やると他の者も同じくしろと騒ぐであろうな。織田ではすでに民を食わせることを責務としておると聞く。とはいえ北条でそれをやるはいささか難しきことも多い。その上、交易の機会が関わるとは…」


 難しきこととは、如何にと考えておると、叔父上の申したことに驚きを隠せぬ。なんとあの女はそこまで見抜いておったのか?


「殿、如何なさいまするか? 織田はまだまだ大きゅうなりますぞ。まことに畿内を制してしまっても驚きませぬ」


 確かに困る。民を織田に預ければ借りになる。向こうは借り受けるというたが、預ければ手に余ると言うておるのと同じだ。ただでさえ里見との戦や商いでは随分と借りがあるというのに。この上、更に借りを増やすのを良しとするのか?


「恐ろしいの。恩を売りつつ枷を嵌めておるように思えるわ」


「それはありましょう。尾張では戦のない世を願っておると言われておりまする。やがて我が北条も選ばねばなりますまい。織田は……、いや久遠は柔い真綿で縛り、いつの間にやあらがえぬようにしていく。謀をさせれば勝てませぬ」


 叔父上が謀で勝てぬと言い切るとはな。


「戦では勝てるか?」


「尾張まで攻め込むなどありえませぬ。今すぐに関東まで引き込み、一度や二度ならば勝てるかもしれませぬ。とはいえそれをすれば織田は三河、遠江、駿河と得てしまうことになりまする。さらに海は別でございます」


 であろうな。今織田と敵対すれば、喜々として今川と武田が織田に従いこちらを攻めてきても驚かん。


「三好からの話、考えても面白いかもしれんな。嫡男であったな?」


 実は少し前に京を治める三好から縁組の話がきておる。わしの娘を長慶の嫡男に嫁がせるというもの。祖父である伊勢宗瑞公は政所執事の伊勢家の出。その繋がりは今もある。三好はかの者を取り込みたいようだ。


 さらに西では織田、六角と確実に足場を固めて大きゅうなっておる。その両家に多少でも優位に立ちたいとの思惑もあるのであろうがな。


 三好も織田を敵には回せぬのであろう。それでは今川の二の舞いだからな。


 北条家が臣従するかは、その時が来たら考えればよい。今は少しでも優位に動くしかあるまい。


「伊豆大島の民は如何しまするか?」


「難しきはそこよ。良策はあるか?」


「いっそ久遠に与えてしまうというのも手としてはありまするが……」


 少しばかり話がずれたな。今の懸念は伊豆大島の民の扱いだ。叔父上はそこで苦悩の顔で驚くべきことを口にした。


「何故そうなる?」


「あの地が北条家にとって扱えておらぬのも事実。さらにその気になれば南蛮船ですぐに落ちまする。織田と対峙することもお考えならば、今のうちに恩を着せるように与えることも一考の余地があるかと。臣従するにしてもその恩が役に立ちましょう」


 あまりに大胆な策に、驚きの言葉すら失う。これほどの知恵者である叔父上が勝てぬと言うのが相手なのか。


「さもなくば織田に民を貸し与えるにしても、民を救った礼が必要になりまする」


「惜しいわけではないが、与えるとなると悩むの」


 叔父上とは南蛮船を造れぬかと少し思案したこともあるが、難しいという結論に達したことがある。技を盗むなどよくあることであるが、織田の不興を買う。更に船大工たちに聞いても現物がないと難しいという。


「この策は北条家が久遠家と誼を深めるにはいいかと愚考致します。一馬殿は武家には人質は出さぬ、一族の娘も出さぬと言うておるとか。かと言うてこちらが一馬殿に娘を出すのは織田が認めますまい。肝心の織田ですらまだ出しておらぬのですからな。されど伊豆大島なら受け取りましょう。離れ小島ならば久遠で守れまする」


 なるほど。縁組のように誼を深めるために伊豆大島を与えるのか。我が叔父ながら恐ろしいことを考える。


「役にも立たぬ島で久遠と誼が持てるのならば悪うないな」


「はっ、さらにあそこは伊豆に近うございます。栄えれば北条の利も大きいかと思われます」


 やれやれ、久遠と絡むと難しゅうて敵わん。如何するか、数日中には決めねばならんとは。





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