第872話・北伊勢の衰退
Side:北伊勢のとある村人
「どねえだ?」
「駄目だ。芽が出てる」
ついてないな。野分がくるなんて。
夜中に慌てて田んぼを見に行っておっ
同じ村の奴の中には、野分の翌日には水に浸かった田んぼを見るなり放置して出ていった奴もいる。こんなことしている暇があったら働いたほうがいい。そう言っていたな。
「隣村でも一揆だと騒いでいるが、若いやつはさっさと尾張に行っちまったとよ」
「そりゃ、そうだろ。一揆を起こすより尾張に行って働いたほうが飯を食える」
尾張だと紙芝居やらお坊様やらが村に来てくれるそうだ。病になればお医師様にも診てもらえる。それと裏腹にここの領主様は、税だけは一人前に取ってもなにもしてくれねえ。
年寄りは一揆も辞さずと領主様に訴えると言うているが、一揆が上手くいくことなんて滅多にない。どうせ飢えるなら尾張に行けばいい。近頃じゃ、みんながそう言っている。
「決まった者以外、尾張に行くのはまかりならんと言われたがな」
領主様も若い連中からいなくなることが面白くないらしい。とうとう尾張に行くのは村から決められた者だけにして、家族は残すようにと言われたが誰も守ってねえ。
領主様が自ら取り締まっているようだが、家臣や下男がその噂を漏らしているから逃げてしまう。家臣や下男の一族も逃げているからな。そのうち領主様以外の人がいなくなるんじゃねえか?
さらに領主様は、村に来て人が少ないとお怒りになって責めを負えと言うそうだが、年貢が払えなくて自害したと言うとどうにも出来ねえ。
一揆が困るのは領主様も同じで、これ以上人が出ていくのも困るんだろう。
「村が丸ごと逃げたという噂も珍しくなくなるな」
尾張だと年寄りでも仕事があるそうだ。手先が器用だったり文字の読み書きが出来るといい暮らしが出来るとか。村が丸ごと逃げて空になったなんて噂もひとつやふたつじゃねえ。
この村でも年寄りが毎日話している。年貢を減らしてもらえるか、さもなくば、みんなで尾張に行こうかってな。
怪しげな旅の薬師が、おらたちが貧しいのは尾張のせいだと言っていた。みんなで一揆を起こして尾張から奪えばいいなんて騒いでいたが、聞く耳持つ奴はこの村にはいねえ。
おらも毎年稲刈りが終わると尾張に働きに行くが、悪いのは尾張じゃなくなにもしない領主様だ。
そろそろおらも考える時なんだろうな。
Side:久遠一馬
収穫の秋だ。知多半島産の馬鈴薯と小豆芋の収穫は順調だった。山の村の椎茸も生産が安定していて、干して高級品として売れている。里では稲刈りも進んでいて、田んぼに稲を干す光景があちこちに広がっていた。
朗報と言えば野分から変わった温帯低気圧が尾張にきて雨が降ったが、大きな被害が出なかったことか。特に三河では川の応急処置がギリギリのところで間に合った。
北伊勢からは出稼ぎとして尾張に来ていた人員が早くも戻ってきている。例年では田仕事や冬支度をしてから来るが、田んぼの収穫が芳しくないようで、さっさと尾張に来ている人が増えているとのこと。
収穫の良し悪しにかかわらず税は持っていかれる。それはこの時代では当然だ。あとは借金をしたり子供を売ったりして食いつなぐしかないが、北伊勢だと尾張に来れば賦役で生きていける。
「こっちが口を出す問題じゃないんだよね」
北伊勢の国人衆の中には、そんな領民を快く思わないところもあると報告が上がってきた。あと事前に懸念していた通り、村を捨てる人が増えている。野分の被害は場所により違うので一概には言えないが、村を復興するよりは村を捨てることを選ぶ人が増えた。
村を捨てると流民になって最後は野垂れ死にというのが、この時代の常識だが、尾張に来れば少なくとも食べてはいけるからなぁ。
一揆を選ぶところも出てくるだろう。六角はどうするんだろうね。
「クーン」
そうそう、ブランカがまた妊娠している。春に生まれた仔犬たちは躾がほぼ済んだことから、織田家に二匹が貰われていくことになる。お市ちゃんが二匹とも世話するようなので大丈夫だろう。
ウチでは少し早いがこたつを出したら、ロボとブランカの居場所になってしまった。まだ火鉢は入れてないんだけどね。今も二匹はこたつから頭を出したままのんびりとしている。
「そうですよ。よく出来ましたね」
エルはすっかりお腹も大きくなり、お母さんになるんだなという印象だ。最近はお市ちゃんに請われて学問を教えている。初めての出産で不安にならないようにとオレやみんなも協力しているが、産まれてくる子を楽しみにしている。
ケティが言っていたことだが、お市ちゃんの明るさがエルにとっていい影響を与えているらしい。
そうそう、この時代の風習もきちんとしている。元の世界でも残っていた風習ではあるが、妊娠五か月目の戌の日には帯祝いをしていて、信秀さんと土田御前から岩田帯を頂いた。安産祈願に行った神社はオレたちと縁が深い津島神社だ。
オレもエルも両親がいない。周りはそのことを本当によく気に掛けてくれている。
「内匠頭も甘いの」
今日は学校帰りに岩竜丸君が来ていて、温かい麦茶と大福を頬張っている。話題は吉良家のことだ。甘いのではないか? 学校の子供たちもそう噂していると教えてくれた。
「名門吉良家の威光も今は昔ですか」
「吉良家のことは学校でも教えておるが、衰退した原因も教えておるからの。名門というだけでありがたがる者などおらぬ」
アーシャだな。きちんとしたこの時代の教育もしつつ、なぜ吉良家はああなったのか。みんなで考えさせたらしい。見方によっては危険な教育だ。とはいえ岩竜丸君が止めないところを見ると許容範囲らしい。
義統さんが足利嫌いなことを岩竜丸君も知っているからな。義輝さん本人はそうでもないらしいが、足利家と幕府が嫌いというのは重臣クラスでは知っていることだ。
「父上は同情しておるようじゃがの。それでも内匠頭に、吉良兄弟に切腹をさせたほうがよいのではないかと問うたそうだ」
「へぇ。それは初耳ですよ」
「悪いのは吉良ではない。今の武家の治め方であると申したそうだ。結果が家臣の俸禄であろう? 今後はそういうのが増えるのであろうな。父上からも『斯波の家にも、増上慢は要らぬ。心せよ』と言われた」
ちょっとびっくりな話が聞けた。吉良兄弟の処遇にオレは口を出していない。そんな暇がなかったとも言うが。
どうも義統さんは自分の権限で切腹を言い渡すことも考えていたらしい。仏の弾正忠という信秀さんの面目を保ちつつ、吉良家は斯波家の陪臣なのでその不始末を許さんと言える立場でもあるんだけどさ。
潰してしまったほうが後腐れがない。厳しいようだけど事実なんだよね。
「公方様も政を放置していずこへやら。足利の世は確実に終わりに近づいておるの」
岩竜丸君にはかなりの機密も教えられている。知らなかったでは恥をかくし、本人も面白くないだろうからね。
そんな岩竜丸君は義輝さんの旅に否定的なひとりだ。無責任では? そう思うらしい。吉良家のことも足利家の現状もよく知ると嘆きたくなる気持ちはわかるけど。
どうしようもないんだよね。正直。
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