第841話・尾張を離れる前に

Side:久遠一馬


 公家の皆さんは船で帰ることに決まった。月食の前に帰ったほうがいいというのが結論らしい。ただし、月食のことは他の公家衆には伏せられたようだ。こちらにも口外しないように言われた。


 近衛さんや二条さんにしても、尾張訪問に余計なケチが付くのは面白くないのだろう。こちらも異論はない。


 二条さんからは天変地異が分かるのかとも聞かれたが、明日の天気くらいならわかることもあるが、あとはわかりませんと言うと少しホッとしていた。


 その後、帰路も陸路でお世話をする予定だった六角家と、伊勢神宮訪問の際の受け入れ側である北畠家に二条さんから帰りは南蛮船にしたと告げて、日程を最終調整している。


 公家衆の皆さんと周辺国の武士の皆さんに、今日は学校と病院の見学をしてもらっている。蹴鞠を学校の子供たちが見事に披露したことで注目度が高い。


 また内々に尾張にもっと滞在出来ないかという打診が、義統さんには来ているらしい。可能ならばこのまま尾張に移住したいらしいが、さすがにそれは二条さんが認めなかった。


 とりあえず公家の皆さんには尾張に来た際に仕事となる学校を見せる必要があるし、病院もまた注目度が高いので見学をすることになった。


 学校は沢彦宗恩さんが、病院は曲直瀬さんが案内してくれている。


「あの男の考えそうなことだ」


 オレはこの日、外せない仕事があるからと公家の皆さんへの同行をせずに、屋敷で義輝さんに細川晴元の一件を説明していた。


 公家の皆さんが学校に行くので、今日は義輝さんも学校で武芸の指導をしないことにしたらしい。屋敷でエルを相手に将棋をして唸りながら報告を聞いている。どうも一回も勝てないことで燃えているみたいだ。


「此度の法要からも外されておる。面白うはずもないからな」


 そうなんだよね。管領である細川晴元は招待もしていない。公式には義輝さんの名代として六角義賢さんがいるので問題ないが。晴元とすると義統さんを恨んでいるだろう。


「北伊勢には奉公衆がいます。戦になることも考えられますが……」


「構わん。すでに失われたものだ。オレも誰が奉公衆か詳しく知らぬ」


 報連相ではないが、北伊勢にはかつて足利将軍の直属の兵だった奉公衆がいる。戦になることも考慮して事前に話は通しておく必要がある。


 もっとも義輝さんにとって奉公衆はすでに無縁の存在のようだ。実働部隊として重要だったけど、すでに各地の奉公衆は在地の勢力に取り込まれている。明智光秀の明智家もそのひとつだったはず。


「うむ……また負けたな」


「ここがいけませんでしたね。この一手が状況を一気に悪くしました」


 本当、興味なさそう。エルとの勝負に負けたらしく、なぜ負けたかのを検証する感想戦という反省会になっている。


「将棋の一手さえ読めぬのでは、天下などとても読めぬな」


 勝敗の原因を丁寧に教えるエルに、義輝さんは天下の流れについて言及した。義輝さんは義輝さんなりに先のことを考えているんだろう。


「読むということは難しきことでございますよ。むしろ知ることを増やすべきかと」


 ただ、エルは先読みをするのではなく、知ることの大切さを説いていた。情報収集。将棋でもなぜ負けたのかという情報を教えることでそれを理解してほしいようだ。


「探り、学べということか。そなたたちはかつての近習どもと相反することを言う」


「公方様には畏れ多く、そのようなことはとても言えませんよ。されど菊丸殿はご自身で考え生きねばなりませんので」


 何気に義輝さんって、ウチのみんなに好かれているんだよね。エルは将棋を通して義輝さんに自分の力で生きる術を教えているのかもしれない。




Side:近衛稙家


 学校とはこれほどのものとはの。広大な土地に学び舎があり、男女問わず、元服前の子から大人まで学んでおる。


「国を整えるとは大変なことよの」


 二条公も驚いておるわ。尾張はかつての律令にも通じる国造りをしておる。尾張、美濃、三河半国でさえ、これほどの学校や診療所が必要じゃということには驚いておろうな。


 律令は古の書物には書かれてあることでもあるがの。されど書物に書かれておらぬことはわからぬのが本音。細かいことなど書かれておらぬことも多い。


 おなじことを吾らでやろうとして出来るか? 無理であろうな。銭がないということもあるが、上手くいかんことは明らかじゃ。


 武士が、それも畿内の外でこのようなことを始める者がおるとはの。世は移り変わるということか。


「図書寮の件、考えてもよいかもしれぬの」


 案内されるままに学校を見ておった二条公は、先日、武衛から進言があったことを口にした。いずこから聞きつけたのか、図書寮を再建してはと武衛から言われたのじゃ。


 古くから伝わる書物などが四散しておることを憂慮しておるらしい。恐らくは久遠の者の考えであろうがの。


 外国とつくにに学び、古きに学ぶ。久遠の者は学ぶのが好きじゃからの。


 書物を写本し残すことを役目とする図書寮を再建し、大和と尾張にも図書寮の分館を造るというもの。返答を濁しておいたが、こうしてみると朝廷として残すものは残したほうがよいのかもしれん。


 寺社や公家の家にあるものもあるが、何処になにがあるかわからぬものも多い。久遠が欲するのは古の書物の写本であろう。随分と古きことを調べておるからの。


 学ぶことにどん欲な姿は見習いたいものじゃ。


「関白に異論があらねば、吾も異論はないの」


 正直、尾張を見て主上と朝廷の危うさを感じておる。内裏すら荒れておる有様でよいのかと思う。主上が政をすることは無理であろうが、せめて古き書物などは残しておきたい。


 大樹はすでに足利による天下に見切りをつけておるからの。反対はするまい。


「図書寮の前に内裏だいりの修繕を致したいところでございますな。内匠頭が以前に修繕してから時が経っております」


 二条公と図書寮の話をしておると、近くにおった山科卿が面白きことを口にした。


 確かに図書寮の前に内裏の修繕が先であろうな。織田は図書寮を尾張にも欲しておる様子。代わりというわけではないが、内裏の修繕をさせるか? 年に何度も献上品を送ってくるのだ。銭を出し惜しむことはあるまい。


「自ら世を見るというのは面白きことよ」


 ひとつ言えることは、尾張の政はこれまでの武士とは違うということ。見習うべきは見習い、吾らもまた変わらねばなるまい。


 内裏の修繕は三好にも知らせねばなるまいが、斯波と織田がやるといえば邪魔はせぬであろう。


 尾張を離れる前に話が纏まれば、主上によい報告が出来よう。


 これは楽しみじゃの。



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