第836話・義統、信秀、一馬、嘘をつく

Side:山科言継


「まさか亡き管領代を追悼するとはの」


 蟹江の温泉に浸かり、近衛公は唸るように昨日のことを口にされた。


 二十隻も南蛮船を揃えての操船を見せたかと思えば、亡き管領代を追悼すると大砲を撃ったのじゃ。驚いたのが本音であろう。


 斯波も織田も、六角とさして付き合いがあったとは聞いておらぬ。上洛の折に立ち寄っただけであろうに。左京大夫に内々に言葉のひとつも掛ければ済んだ話。それをわざわざ吾らのおるところで追悼するとは。


 誰が考えたことか聞いてみたいものじゃの。これで当面は六角が織田と事を構えることはあるまいて。近江源氏の六角が義を通した尾張を攻めるは難しかろう。


「今川の寿桂尼が随分と顔色が悪いようであったが、いかがした?」


「実は武衛に己の身を以って和睦を願い出てございます。武衛はまずは家中をまとめよと申して、商いで配慮することになりまして……」


 近衛公が考え込むように目を閉じる中、話を変えるように三条公に今川のことを問われた。孫のひとりである武田の子と清洲で会ったと聞く。武田を攻め立てておる今川を気にしておるようじゃの。


「今川も武田も共に尾張を味方にしたいか」


 溜め息をこぼすように三条公の言葉が途切れた。今や東国一の卑怯者とまで都では噂されておる甲斐の武田。お陰で若狭の武田も肩身が狭い思いをしておるとか。三条公としても娘を出したことを少し悔やんでおるのかもしれぬな。


 とはいえ斯波も織田もいずれの味方もするまい。因縁ある今川を助けるはずもなく、また同盟破りの武田など信じるに値せぬ。なにより助ける利があるまい。


 吾が気になるのはむしろこの温泉じゃの。この温泉も一馬らが掘って湧き出したというではないか。温泉を湧き出させるなど、まるで仏の如しと言っても過言ではない。久遠の知恵とやらは凄まじいの。


 今のところ隙らしい隙もない。まことに今後は尾張から天下が動くのかもしれぬ。




Side:朝比奈泰能あさひなやすよし


 お止めするべきであったか? まさか自らの命と引き換えに和睦を願われるとは。されどわしには悲壮な顔で告げた尼御台様に、その覚悟が危ういと告げることは出来んかった。


 斯波も織田も戦を望まぬのであろう。尼御台様の顔を潰すことなく譲歩して収めてくれたので助かったが、受け入れられても突っぱねられても戦となり得た。


 わしが如何に報告をしようとも、尼御台様が人質として残れば今川の家は騒動となろう。また突っぱねられても、ならば戦だと騒ぐ輩がおる。


 織田との戦は、今ならば野戦においてならば勝てるやもしれぬ。されど勝ってもその先がないのだ。東三河でいくら勝っても安祥城は抜けられまい。また東の北条も甲斐の武田も隙を見せると攻めてこぬとも限らん。


 織田ならば北条と武田を味方に出来よう。さすれば今川は詰んでしまう。仮に上手くいったとしても如何にして戦を終わらせるのだ? 和睦というのは相手があってのもの。


 斯波も織田も本領は尾張だ。三河で勝って西三河を取り戻しても相手には大きな痛手にならん。明や南蛮との商いで力を蓄えられるとこちらに対抗する術はない。


 更に昨日、南蛮船に乗ってわかった。あれで海から攻められると、こちらは手もなくしてやられるか、海沿いの城すべてで守りを固めるかしかない。もはや戦に集める兵も事欠くことになろう。


 雪斎和尚が甲斐に狙いを定めたのは正しかった。此度の訪問で改めて理解したわ。先のない戦でいくら勝ったとて無駄に疲弊するだけ。更に一つの勝利が、今川領を物に事欠く地に変え、和睦すら言い出せなくなる。


 東国一の卑怯者ならば討っても今川の家名に傷はつかん。そのまま信濃を制してしまえば、戦をしても遠江を斯波に戻しても今川は生きてゆける。


「いっそ遠江は切り捨てるべきか?」


 人を遠ざけてひとりで考えておると、遠江こそ今川にとって不要なのではと思えてくる。遠江勢を甲斐と信濃での戦で使い、取ったあとは、上手く切り捨てる算段もしておくべきかもしれぬ。


「久遠一馬か。厄介な男が近隣におったものだ」


 恐ろしいとさえ思った。戦場でないところで人を恐ろしいと思うたのは初めてかもしれぬ。武衛殿も内匠頭殿も何故あのような恐ろしい男を信じられる?


 涼しい顔をして人が出来ぬことを平然とする。さらに管領代殿を己の流儀で追悼することで、斯波も織田も己も六角に対して誠意を示し、敵意がないことを明らかとした。


 あの追悼はすぐに諸国に広まる。義理堅い織田と知れ渡れば、六角とて容易く戦は出来ん。東国一の卑怯者のようになるのは誰もが嫌じゃからの。


 まあ悲観するばかりではないか。尾張からの品物を安くしてもらえることになる。これまで値が恐ろしく高かったことで、家中にあった不満も此度のこれで和らぐ。


 武具や木綿に絹、それらは何処からか手に入れねばならん。だが鉄も革も布も上物は尾張物しかないのだ。まさか西国まで買いに行くわけにもいくまい。


 ここが踏ん張りどころだな。なんとしても今川家をこの窮地から守らねばならん。なんとしてもな。




Side:久遠一馬


 温泉の評判が良くてまだ蟹江に滞在している。公家衆の皆さんがもう少し温泉に入りたいと言ったんだ。


「ここのほうが落ち着くな」


「いい加減、公家の相手も疲れたわ」


 今日は蟹江のウチの屋敷にいる。自慢の露天風呂に信秀さんと義統さんと一緒に入っているんだ。ふたりとも仕事という名目で一時的に逃げてきた。まあオレもだけど。


 織田屋敷は公家とか他国の人でいっぱいだからね。ゆっくり出来ない。


「昨日は面白かったの。驚く公家や他家の者の顔は見物よ」


 夏場だけどね。今日はそこまで猛暑でもないから温泉も悪くない。そんなのんびりとしていると、義統さんが思い出したように昨日のクルージングのことを話し始めた。


 家中には事前に根回しをした。弔砲として管領代だった定頼さんを弔いたいと言ったら反対はなかった。信秀さんには六角を牽制するには上手い手だと言われたけど。


 実はそんなつもりじゃなかったんだが。上洛の際に、観音寺城から出立する時に見送りに出てくれた定頼さんが忘れられなかっただけだ。


 自身の命を懸けて近江と幕府の屋台骨を守ろうとする気概があった気がした。亡くなった偉大な先人に敬意を払い、弔ってやりたい。そう思っただけなんだけど。


「北伊勢の懸案はこれで片付きましょう。こちらが領地を要らぬといえば戦にはなりますまい」


 信秀さんも久々に素のリラックスした表情が出ている。最近は公家とかいるから隙を見せない感じだったからね。


 北伊勢、地味に面倒な状況なんだよね。暮らしの格差と人の流出から、そろそろ不満が爆発しかねない状況だ。三雲や細川が不安を煽っているのもあるが。


 こっちで管理してもいいが、一度は六角の下で管理するように提案するべきだろう。北畠でもいいが、中伊勢が独立勢力なんで邪魔で出来ないだろうしね。


 それにしても、あの人たちそろそろ帰ってくれないかな? もう日常に戻りたいよ。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る