第834話・寿桂尼の覚悟
Side:久遠一馬
法要と花火は終わったが、外交という意味で言えばこれから本格的に始まると言っても過言ではない。周辺諸国とはこれを機会に話すことが色々とある。
「さて、もう一仕事か」
オレはその前にもう一仕事がある。
「支度は整っております」
すかさず資清さんから頼もしい報告があった。昨夜花火見物のために泊まった勝幡城から、このまま蟹江に向かうことになっている。
南蛮船のお披露目があるんだ。元の世界で言えば観艦式に近いだろう。佐治さんからは水軍衆もやる気になっていると報告が先日にはあった。馬揃えとこの時代でいう軍事パレードと同じようなものだというと分かりやすかったらしい。
ただ、例によって二日酔いの人たちがいたので出発は昼前となり、観艦式は更に翌日となった。この日は蟹江にある織田家の屋敷に泊まり温泉を楽しんでもらう。
まあ、飲酒と入浴の掛け合わせは、循環器系に過度の負担が掛かる。お公家さんたちには更なる注意と監視が必要だろう。気が付いたら、湯船に浮かんでるなんて勘弁してほしいからね。
オレは夜の宴には出る予定で、それまでは観艦式と蟹江の商いの状況確認のためにウチの屋敷に来ていたが、急遽義統さんから呼び出しがかかった。
「お呼びでしょうか?」
「忙しいところすまぬな。寿桂尼殿から会見したいと申し出があった。そなたも同席してほしくての」
何事かと思ったら寿桂尼さんが動いたのか。それにしてもいつもエルたちに頼っていることをひとりですると忙しいね。
義統さんと信秀さんとオレの三人で会うことにしたらしい。内密にと頼まれたんだとか。
「少々薬が効きすぎましたかな」
「であろうな」
信秀さんと義統さんは少し苦笑いをしている。法要と花火で危機感を持ったんだろうな。和睦という話を正式に持ち出すのか?
ともかく会いたいと言われた以上拒否することはない。さっそく会うことにするが、場所は蟹江の織田屋敷にある奥の間で会うことになった。
寿桂尼さんの側は朝比奈さんと甥の中御門さんが同席するようで、ほかには父親の正室が寿桂尼さんの姉である山科さんも同席することになった。
うーん。込み入った話をするならメルティでも呼びたいところだが、公家衆がたくさんのここには呼びたくない。寿桂尼さんも清洲に帰ってからにしてくれたらよかったのに。
「武衛様にお願いの儀がございます」
型通りの挨拶をしたのちに寿桂尼さんは、じっと義統さんを見つめてゆっくりと言葉を紡ぎだすように話し始めた。
「私の一命を以って、今川と和睦を考えていただけるように伏してお願い申し上げます」
用件は想定内だが、想定外なのは対価だった。自らの命を対価にと言うとは思わなかった。人質になるという意味だろうが、受け取り方によっては命を差し出すという意味でもおかしくない。
その覚悟はあるんだろう。朝比奈さんが能面のような表情で見守っていることがその証と思える。
「これはまた唐突じゃの。その言葉と覚悟は見事と思う。されど互いに己の想いだけでは家は動かせまい?」
義統さんはほんの僅かだけ沈黙ののちに静かに返答をした。彼女の覚悟には思うところもあるんだろう。義統さんの父親である義達さんは一応生かして帰されたんだ。
「今川はここにいる朝比奈が必ずや動かします」
そうか。寿桂尼さんは朝比奈さんにすべてを託して帰す気なんだ。確かに彼は今川家の忠臣の中の忠臣だ。太原雪斎さんもいる現状では、満更見通しがないわけではないのか。
義統さんがちらりと信秀さんとオレを見た。珍しく困っているらしい。命を懸けた嘆願、これを無視するのは難しい。だけど今川も軽々しく遠江は手放せないだろう。
まあだからこそ和睦を考えてほしいという言い方なんだろうが。
「守護様、よろしゅうございますか?」
「内匠頭、なにか妙案でもあるか?」
どうしようかなと思っていると信秀さんが動いた。その瞬間、一斉に信秀さんに寿桂尼さんたちの視線が集まった。
義統さんを軽んじるわけではないが、信秀さんの力は絶大だ。その意見が自分たちの命運を握ると承知しているんだろう。
「懸案は遠江でございます。とはいえ今川としてもすぐに返すとは言えますまい。今返せば武田に攻められるは必定でございますれば」
「であろうな。されど、わしとしても遠江を要らぬとは言えぬ」
「ここは寿桂尼殿に今川を動かしていただいてはいかがでしょうか。一命を以ってという覚悟は御見事でございますが、なにかあれば我らが痛くもない腹を探られまする」
やはり懸案は遠江だ。信秀さんも言っているが、今遠江を無理に返すと今川は反乱祭りとなるかもしれないし、武田が勢いづく。現状ではそこまで評価は高くない武田晴信だが、なんと言っても史実では武田信玄として活躍した男だ。そんな隙を見過ごすはずもない。
晴信に時間を与えるのは危険だ。申し訳ないが織田にとって今川と武田が潰し合う現状がもっとも理想なんだよね。
ただ、信秀さんの意見に寿桂尼さんの表情が曇る。まあ現状維持で家をまとめてから来いと言われると困るよね。
「では寿桂尼殿の覚悟にこちらが報いる策も要りますね。それはこちらで動いてはいかがでしょう。尾張では今川向けの商いが盛んでございますが、品物の値は敵対しておる者に相応しい値でございます。それを幾つか考え直すのは、私としてはよいと思うのですが」
信秀さんが寿桂尼さんの表情を確認してちらりとこちらを見た。なにか飴を与えろ。そういう意味だと感じたので意見を述べる。
緊張緩和が必要か。織田と今川の関係は一時期よりはマシだ。本證寺との戦のあとに相応に緊張緩和をしたからね。とはいえ尾張の行商人に対する不当な取り締まりなどもあり、今川との商いは近隣では一番高い元売り値になっている。それを尾張の商人に卸して、そこから駿河の商人が買って、陸路で運ぶ。雪だるま式の価格上昇が負担なのは確かだろう。
名門今川家が買えないとはいえないし、我慢しろとも言えない。
「ほう、よいのか?」
「商いは一馬に任せております。一馬がよいのならば某も異論はございませぬ」
義統さんが信秀さんにも確認を取ると、信秀さんは承諾した。ある程度想定していたんだろう。寿桂尼さんへのお土産としてこちらが切れる手札で一番いいのはこれだからね。
まあ今川との商いは織田家ばかりではなく、ウチの利益だからオレに任せたというところか。信用されているとも思えるが。
寿桂尼さんたちの表情が幾分良くなった。人質はいらない。それは織田家の方針であり斯波家もまた同じだ。当然知っているはずだしね。
「ということだ。寿桂尼殿。そなたの覚悟見事なれど、互いの家中には和睦を望まぬ者も多かろう。その者たちが謀でもすれば戦しかなくなる。もし今川がまことに和睦を望むのならば、少なくとも家中をまとめられよ。こちらは先に商いで譲る」
相変わらず義統さんは言葉の遣い方が上手い。命を懸けた覚悟に対して先に譲歩したという体裁を取ったのは見事だ。こういうところは見習いたい。
実際、商いの値なんて幾らでも動かせるものだ。駄目ならまた上げればいいだけ。とはいえ今川が困っているのも確かなんだよね。
お酒や嗜好品ばかりではない。絹や木綿に関しても上質なものは都まで行くか、尾張産くらいしかない。
お隣の北条はウチとの取り引きで暮らしも変わり儲けも出ているからね。あれ実は最初は今川がしていたことなんだよね。三河工作の一環として今川家や今川領から銭を得る目的で。
そこまで儲けさせる気はないが、まあ必要な分を買える値段にしてやることが現状ではベストかな。史実の寿桂尼さんから推測すると、それで十分動けるはずだ。
まあ遠江を返すなんて甲斐と信濃でも取らないと無理だろうが。
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