第828話・苦悩する寿桂尼
Side:北条
駿河守の叔父上からの教示も、西より流れ来る噂も聞いておった。来る前も決して格下だと思うなと念を押されたが、そのようなこと出来るはずがない。
まことに数年前までは尾張の中で争っておったのかと疑いたくなるほどの賑わいと法要よ。
「今川の寿桂尼殿がおられましたな。わざわざ出てこられたのが今川の苦しさを表しておるのでございましょう」
法要の翌日、わしは滞在しておる那古野城にてゆるりとした朝を迎えておる。あくまでもわしは花火見物に参っただけのこと。そういう体裁でおるのだ。斯波としても織田としても関東の諸将を意識するのは、我が北条家の立場を
此度は叔父上の家臣も同行しておる。幾度か尾張に来たことがあるというのでわしが頼んだのだ。そんな叔父上の家臣が今川の寿桂尼殿がおったと教えてくれた。
「以前は今川との縁組も話があったのだがな。里見の一件で立ち消えになったこともあるのであろう」
我が北条家は、かつて伊勢宗瑞公が関東にて所領を奪うまでは駿河の今川家の世話になっておった。争うこともあったが、その縁が先年までは続いておったのだ。
きっかけはこれまた尾張の織田だ。叔父上がじかに見たいと、自ら兄上の嫡男である西堂丸を連れて尾張に来たことだ。その帰りにと織田は南蛮船で関東まで送ってくれたのだが、その際に里見と戦となった。
結果は里見の大敗と言えるほどの勢いで破ったのだが、その際に義元が里見相手に助力するというような口約束をしておったことで兄上は今川に不信を深めた。その前には駿河の河東を取り戻さんと関東諸将を巻き込んだ戦を起こしたこともある。
今川との間には義元の嫡男に、兄上の娘を嫁がせる話もあったが立ち消えとなり、今では尾張の織田と誼を深めておるのだ。今川が東に謀をする余裕などなくなると進言した叔父上の見立て通りになっておるわ。
今や東国一の卑怯者と言われる武田晴信とも我が北条家は同盟関係にあるが、こちらもすでに疎遠だ。家中でも晴信が同盟を守るとは思えんという考えでほぼ一致しておるくらいだ。
今川はその武田と戦を始めたからな。要は弱いところを攻めるという当然のことをしておるまで。こちらとしても責めるつもりはないのだが……。
「さすがは叔父上というところか。今川と武田を見切り、織田と誼を深めるべきだと言うた時は半信半疑であったが」
北条家とて決して今川を笑えるほどではない。叔父上が兄上に進言しなければ今川と武田の戦に巻き込まれておったはずだ。
それに梅酒。あれは恐ろしいほどの高値で関東から奥州にまで売れておる。梅酒の元となる酒と石蜜は織田から
先年の地揺れの復興もいち早く進んだのは織田からの援助があったからだ。そして此度は大内義隆の法要があるからと、偶然を装うということではあるが、内々に声掛けを寄越してくれた。
寿桂尼殿や晴信の弟の顔色が悪い様子をみれば、気楽なものよ。
Side:寿桂尼
「困りましたね」
過去の恩は忘れず。武衛殿が隆光殿にかけた言葉には、そんな意味があるのでしょう。さらに手に入れようとしても手に入るものではない青磁の焼き物をあのような形で与えるとは。
大内家や斯波家ならば手に入るということでしょうか。
武衛殿の
「朝比奈殿、遠江を守り切れますか?」
「ご下命、とあらば守り切ってご覧に入れましょう」
「民が織田に内通しても……」
「それが某の役目でございまする。されど……裏切る者は民のみならず家中にも出ましょう」
朝比奈殿ならばそう言うでしょうね。確かに他の者が裏切っても朝比奈殿ならば信じることが出来ます。
とはいえいざ戦となれば、今川は終わりかもしれません。飢えぬとの評判は遠江どころか駿河にも届いておりましょう。表向き騒ぐことはしなくとも、そんな織田が攻めてくれば内通する者が出ないとは言い切れません。
雪斎殿が活路を甲斐と信濃に見出したのは苦肉の策。甲斐や信濃とて同じこと。誰もが飢えぬのならばそれがいいのです。
「未だかつて、これほど力の差が誰の目にも明らかになったことはあるのでしょうか? 武士や僧だけではない。民の暮らしが違い過ぎる」
本気で私が人質となることも考えねばならないかもしれません。ただ、武衛殿と内匠頭殿は受けるでしょうか? また我が子は、今川家を斯波と織田の下にすると家中を納得させて抑えられるのでしょうか?
虚勢を張れば張るほど今川家は苦しくなる。
如何にするべきなのでしょう。私にもわからなくなりました。
斯波は……織田は……いかなるものを求めて動くのでしょう?
都に上がり天下に号令をかけるのか、それとも領地をより富ませることを願うのか。
私にもわからなくなりました。
Side:久遠一馬
「いささか不憫にも思えるな。今川と朝倉の者らは顔色が悪かったぞ」
法要の翌日、北畠具教さんがお父さんの晴具さんを連れてウチに遊びに来た。なんでも学校と病院を晴具さんに見せたいらしい。案内役がオレなのはいいが、少しフリーダムすぎないだろうか。普通は那古野城の信長さんの所に行くのが、本筋だろう。晴具さんもいるのに。
まあウチに泊まったこともあるしね。学校と病院に『視察の準備するように』という指示は既に出しているので、具教さんたちの休憩のために井戸で冷やした麦茶を出したが、具教さんは昨日の法要について口を開いた。
「世の流れは残酷ですからね」
別に昨日に限ったことではないが、義統さんが大内家に過去に恩があると口にした件が今川や朝倉のプレッシャーになったらしい。義統さんのことだ。故意犯だろう。
嫌味をネチネチと言うタイプではないが、恩を忘れないという態度で因縁も忘れないと示すなんてなかなか出来る事じゃないけどね。
「武衛殿も本心では困ってもおろうな。過ぎたことが厄介なのはよくわかる。立場として許せることではないが、取り戻すのは容易いことではない。仮に取り戻したとして、その先には更なる面倒事があるものだ」
今日は晴具さんが同席している。言葉を選んで答えるが、晴具さんとも今回の尾張滞在の期間で何度も話したことで多少は打ち解けたと思う。
晴具さんにとってオレは息子と同年代だ。身分も違うのでこちらとしては態度には気を付けているが、まあ息子である具教さんとオレとの交友関係を壊さないようにと気を使ってくれている部分もある。
今も少し軽い物言いの具教さんに困った顔をしつつ、今川と朝倉の問題がいかに厄介であるかということをよくご存じのようで、義統さんの心情を察して同情するような様子だ。
「火種はいずこにでもあるからな。伊勢の水軍も北伊勢の連中も」
「困りましたね。こちらとしてはどちらも食い扶持を奪ってはいないのですが」
蝉の声が聞こえる。吹き抜ける風に夏の心地よさを感じつつ麦茶を飲むと、具教さんは少し真面目な顔になって伊勢との問題も口にした。
さほど大きな問題ではない。とはいえ伊勢や志摩の水軍は織田水軍との力の差と暮らしの差に不満が高まっている。彼らの暮らしも以前よりいいはずなのに。
そして北伊勢の国人衆の微妙な立場と不満を北畠家でも把握していたらしい。六角家の義賢さんも来ている。北伊勢の件は、北畠家と六角家と少し話す場を設けたほうがいいのかもしれない。
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