第821話・小笠原長時の野望
Side:小笠原長時
城も飯も贅を尽くした暮らしをしておるものだ。尾張と信濃はこれほど違うのか。
斯波も先代の頃は今川にいいようにやられておったと聞き及ぶが、先代が戦下手の愚か者であっただけか?
無論、世話になっておるのだ。文句があるわけではない。愚か者というのならばわしも人のことは言えぬ。いかに相手が卑怯者の武田とはいえ、戦に敗れ城を失った以上は己が悪いとしか言えぬ。
「武田信繁か。卑怯者の弟とは。よく来られたものだ。甲斐には恥という言葉はないのか?」
苛立ちの訳は、卑怯者の弟が尾張に来ておるからだ。また騙し討ちでもしに参ったのか? 尾張者が何処まで知るかわからぬが、武田ほど卑怯な者はそうそうおらぬ。そのあたりは教えてやらねばなるまい。
「卑怯者でございます故に、仏の弾正忠殿が恐ろしいのでしょう。城の者に聞いたら、なんでも晴信の倅が人質として尾張におるとか。武衛様も信じてなどおりますまい」
「ほう、人質まで出したのか?」
「名目は学問の修練ということでございますが、人質でございましょう」
家臣らも卑怯者を苦々しげに語るが、驚くべきことを聞かされた。相変わらず油断ならぬ相手だ。まさか人質まで出しておるとは。今川を相手に同盟でもする気か?
「とすると今川と組むは悪手か」
斯波と今川は因縁浅からぬ仲。今川と組んで織田に東美濃から攻められてはひとたまりもない。
「それがはっきり致しませぬ。今川からは義元の母である寿桂尼が参っております。それと以前に三河の一向衆相手に手を組んでおります。和睦をしておるという噂も……」
信濃から尾張は遠い。尾張の動きは行商人や旅の僧から聞いておるが、よくわからぬのが本音であった。こちらに来てから家臣にいろいろ探らせておるが、美濃を手に入れて今川と戦をするのではないのか?
「さて、如何するか。武田の者は皆殺しにしてやりたいが、信濃の者らもまた信じることは出来ぬ」
尾張では仏の弾正忠と評判の内匠頭殿が国人どもをまとめておるが、あいにくとわしにはまとめてくれる者がおらぬ。厄介なのは武田を追い出せば、そのまま信濃の中で争いが始まることだ。わしの力不足といえばそれまでであるがな。
「殿、武衛様に素直に打ち明けて、お頼み申すしかないのではありませぬか? 武衛様も内匠頭様も信義を重んじて謀や卑怯者を嫌うと評判でございますれば……」
信濃でも織田の評判は知られておる。戦が終われば攻め獲った敵地の民でさえ飯をくわせるのだとか。眉唾物の戯言かと思うたが、如何にも事実だと知れ渡って以降は信濃での武田の評判は地に落ちた。
戦に勝ったとはいえ、相手を皆殺しにして奪えるものはすべて奪うのは武田くらいだ。あれは人ではなく鬼か畜生だと信濃では言われておる。
とはいえやはり信濃は遠いのだ。尾張から兵を率いて信濃まで来てくれるのかはわからぬ。また来られるのかもな。一見すると贅を凝らした城であるが、美濃とていずこまで従えておるかわからぬ。
ここは確かに我が小笠原家の窮地の現状を話して助けを請うしかないか。
もしかすると武衛殿に臣従を迫られるやもしれんが、武田を信濃から追い出して憎き晴信の首を獲れるのならばそれも致し方あるまい。
いかに信義を重んじるとはいえ、なんの見返りもなく助力などする者はおらん。
しかし、そうすると武田信繁の首は諦めるしかないか。尾張と美濃はまずかろうが、信濃であの首を獲って晒してやろうと思うたのだがな。
Side:久遠一馬
朝食後は暇だった。公家衆は二日酔いとガップリ四つに組んで『ウーウー』言いながら格闘するか、旅の疲れを癒すために休んでいるしさ。武家も今日は休息日にした。
具教さんなんかは近いので旅の疲れもなく暇だったんだろう、父親の晴具さんを連れて町に出たらしいけどね。どうせ行先は八屋だ。それに何度も尾張に来ている具教さんは信頼がある。親父さんに清洲の町と民を見せたいんだろう。
「ほう、面白きことを考えたものだ」
結局、オレはすずとチェリーと一緒にお市ちゃんと姉妹の子たちとトランプをして遊んでいたが、信秀さんがやってきて輪に加わった。
ババ抜きとか七並べとかやりながら雑談をしていたが、ふと以前からエルたちと相談していた公家対策のひとつを話すことになった。
周防に滞在していた公家の皆さんは京の都に戻ったが、逃げ出したくらいだ。当然ながら大半が食うに困っているらしい。
具体的には彼らに仕事を与えようという話だ。食べるのに困るくらいだ、無条件で支援しても構わないが、何か仕事でも与えたほうが生きがいになるだろうし、余計なことも企まないだろうと思ってね。
「京の都で聞いた話だと古い文献などもかなり四散したそうで。古い記録とは銭では買えぬ価値のあるものです。それらの収集に再編と保存でもしてもらえばどうかと思いまして」
仕事内容は朝廷が管理していた過去の文献や文化財になりそうなものの管理だ。それらは戦火で失われたものも多く、現存するものも公家に下賜されたり、寺社に与えられたりして散り散りになっている。
返せとは言えないしそこまで必要ないだろうが、せめて書物などは写本でもして朝廷でも管理するくらいしてもいいかと思ってさ。
どのみち朝廷に政治を任せるのは、この先もまず無理だろう。元の世界の皇室のように儀式を継承して行う方向で残していく可能性が高い。
織田か斯波で支援して公家に仕事を与えて食わせるのがいいかと思ってね。まだ私案の段階だから織田家中の議論も必要だし、朝廷と公家側の意見も聞かないといけないからどうなるかわからないが。
「尾張に来たい公家もおるが、そちらもなにか役目を与えるか?」
「そっちはもっと楽かもしれません。実は太田殿に各地の言い伝えや暮らしの様子などを書物として残すべく働いてもらっています。ただ人手が足りないのと太田殿が忙しいのであまり進んでおりません。公家の皆様にはそれらのお手伝いでもしてもらえばよいかと思います」
ああ、どうも尾張に滞在したい公家が何人かいるらしい。それとなく打診があって信秀さんにまで話が届いたみたいだね。
今川が落ち目であることや単純に尾張のほうが栄えていることもある。牛乳のように公家の文化を重んじているという体裁があるので、暮らしに困っている公家からすれば期待もしているんだろう。
一般論として義統さんの御伽衆とかにして禄を出してもいいんだけど、将来を考えると最初から働いてもらったほうが誰の為にもいいと思うんだよね。
権威があるだけに下手にただ飯で飼い殺しにしてしまうと、権威があるから働けないという、史実の江戸時代の高家のような立場になるのは良くないしね。
史実の吉良家のように、高家として礼儀作法の家伝の指南をして多額の礼金を貰わないと体裁を保てないとか面倒なことになりかねない。
役職というか名誉ある仕事と地位なら問題ないだろう。学校に郷土史の編纂と歴史の編纂などの部門を新設して、そこの教師と学者にでもしたらいいとアーシャとも相談しているところだ。
学校の師は尾張でも尊敬される立場になっているから悪くないはず。
「次の世に残すべく働かせるか。公家にはちょうどよいかもしれぬな」
「政に関わらせると厄介になりますので」
信秀さんも少し考えつつ、悪くないと思ってくれたらしい。公家って、宗教関係者以外で唯一と言ってもいい知識層なんだ。
遊ばせておくのがもったいないのが本音でもある。
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