第810話・暗殺
Side:松平広忠
家臣に尾張に行くと告げて出立の支度を始める。当然ながら同行を申し出る家臣もおる。供の者が増えるとその中にわしを殺めようとする者もおるかもしれんと、半蔵は案じておるが、供の者も必要であろうと申し出る者に来るなとは言えぬ。
実のところ誰がわしの隠居を企み、誰が亡き者にしようとしておるのかわからぬのだ。ただ、半蔵は織田に従うことを是とした家臣の中にもそういう者がおると言うておる。半蔵の話では織田方もそれを懸念しておるとのこと。
危ういのは織田領に入るまでか。
「殿、織田方も警護の者を密かに配するとのことでございます」
「それは、まことか?」
「はっ」
信じられん。まだ臣従しておらぬのだぞ。己の家もまとめられず、謀叛を起こされそうな愚か者のために人を寄越すというのか?
織田には竹千代がおる。わしなど不要であろうに。
情けない限りだが、うかうかしておれん。岡崎から安祥はさほど遠くない。支度を終えるとすぐに城を出る。ここに再び戻れるのかという如何とも言えぬ思いが過る。
見上げると雨が降りそうな空だ。まるでわしのこれまでの生き様のような空だな。
汗が流れる。夏なのだなと久しぶりに城の外に出て実感する。馬の手綱を握る手が汗で不快なのは夏のせいであろうと思いたい。
なるべく大きな街道を行く。見晴らしが良ければ奇襲を受けず済む。それに人目があれば供をする者も容易く裏切ることが出来まい。
馬を引くのは半蔵の手の者だ。暑いからか手ぬぐいで頬かむりをして俯き気味の小柄な男。いつもと違う者であることで幾人か訝しんでおったが、半蔵はわしを守るためにはこれだけは代えてくれと言うてきたのだ。
「わしの考え過ぎであったか?」
意外なことになんの騒ぎもなく、わしは織田領に足を踏み入れようとしておる。まさか織田の所領で騒ぎは起こすまい。
「殿、しばしお待ちを」
家臣が愚かでなくてホッとしておると、小高い丘と森に挟まれたところに差し掛かった。目の前の街道に森の木が倒れておるのが見える。街道を旅する者は倒れた木の横を迂回して進んでおるようだ。
供をする家臣の数名が少し怪しんで確かめに向かう。
「何奴!!」
まさか……。そう思うた時、森と丘から無頼の輩が一斉に駆けてくる。
ああ、わしはそこまで疎まれておったのか。そんな思いが浮かぶと怒りすらなく何故か落ち着いておった。
「殿をお守りしろ!!」
家臣も無頼の輩に対するために武器を手に動きだす。
「御命頂戴! 松平宗家のため! 三河のため!!」
皆の目が無頼の輩に向いたその時、数人の家臣とその供の者が無頼の輩ではなくわしに向いておった。
まさか奴が……。
「とのぉぉぉ!!」
本多平八郎がわしを案じる声が一際大きく響いた。わしを心から案じて自らなりふり構わずにこちらへ駆けてくる平八郎を嬉しく思う。嫡男の子は五歳であったか。武芸が好きな子だと喜んでおったのを思い出す。
わしは死ぬわけにはいかぬ。自ら刀を手にかける。
「お待ちください。すぐに終わります」
武士として最後まで戦おう。迫りくる裏切り者を見てそう決意した時、馬を牽いておった
「そなた……」
「半蔵殿!」
すべての者が無頼の輩を見ておるとばかり思うておったが、いつの間にか半蔵が手の者を連れてわしの周りを固めておる。
まて、この小者。半蔵を『半蔵殿』と呼んだな? なに奴だ?
「どけぇ!! これは我ら三河武士の戦! 己のような素破崩れが関わることでないわ!!」
岩松の怒声にも半蔵は顔色ひとつ変えずに槍を持ち対峙する。
「そろそろかしら?」
馬を牽いておる小者の声が変わった? まるで女のような声で顔を僅かに上げるとニヤリと笑みする口元をこちらに見せた。
その時だった。太鼓と法螺貝の音が聞こえる。ドンドンドンと叩く太鼓の音に合わせるように無頼の輩の動きが止まる。
戸惑う家臣たちは何事だと辺りを見渡しておるが、半蔵だけは動じることもなく岩松らの謀叛人に向いておった。
「そなた、何者だ?」
刀から手を離すと今のわしの馬を牽く小者に声を掛けた。だが、答えは小者ではなく無頼の輩の背後にあった。
「あの家紋は……」
家臣たちが騒めいた。織田木瓜。敵として戦場でよく見た旗印が森や丘の上に上がった。
「半蔵殿、手を貸したほうがいいかしら?」
「不要でございます。お方様」
馬を牽く小者がわしの問い掛けを無視して半蔵に声をかける。岩松らの背後には平八郎らがすでに迫っておるのだ。確かに不要であろう。
「では、松平殿。連中を生け捕りにする命をお願い致します。掃除は最後まできっちりと致しましょう」
お方様か。このような場でそのような呼ばれ方をする女など……。
「平八郎! 半蔵! 殺すな!」
「はっ!!」
無頼の輩はすでに止まっておる。こちらを攻める気はないらしい。その背後に織田の兵がおることがなによりの証。
岩松らも弱くはないが、織田の兵に囲まれて半蔵と平八郎らに攻められるとひとたまりもなかったか。
「殿! ご無事でございますか!」
「ああ、大事ない。こちらのお方に助けられたようでな」
敵味方がはっきりした。十数名の謀叛人と今のわしを守り支えてくれる家臣に。平八郎らは岩松らを叩きのめしてわしの前にたどり着いた。その顔には安堵がみえてわしもホッとする。
そんな中、家臣たちが見ておったのは馬を牽いておった小者。いや、女か。
「お初にお目にかかります。久遠一馬が妻。春でございます」
頬かむりをとると黒い髪が一緒に取れて、まるで桜の花のような髪をした女が顔を見せた。
「同じく、夏でございます」
「同じく、秋」
「同じく、冬だよ」
わしの周囲におった下男たちが同じく頬かむりを取ると、家臣たちから驚きの声が上がる。まさか噂の久遠家の女だとは……。
「申し訳ありませぬ。某の独断で久遠様の助力を受けましてございます」
すかさず半蔵が平伏して謝罪の言葉を口にした。なるほど。そういうことか。謀叛人のあぶり出しをしたわけか。
「わざわざご助力していただき、感謝致します」
わしは馬を降りると半蔵の隣で控えるように地に片膝を突いて、久遠殿の奥方らに頭を下げた。
身分が違うのだがな。まさか長年敵対しておったわしを助けに織田の者が直接来るとは。
「ああ、そのことだけどね。内密にお願いするわ。大事の前に騒ぎは困るわ。お互いにね?」
いつの間にか奥方らの周りには護衛の者らが集まっておる。平八郎にも負けぬ猛者もおるようにわしには見える。
そんな中で春殿が語った言葉にわしと家臣らは絶句した。
「されど……」
「従う者には情けを与える。それが織田のやり方よ。恩を感じるなら大殿に働いて返してほしいわね」
自ら危うい役目を演じておきながら手柄を要らぬと言うのか?
「この先は大丈夫よ。このまま安祥に入るといいわ。ただし、お口にはチャックでね?」
奥方らはまるで小娘のように笑うと、春殿が口を閉じるような仕草で口外無用と告げた。
岩松らはこちらで詮議をしてよいとのこと。ただし織田からも人を寄越すので加えてほしいとは言われたがな。
そのまま奥方らは尾張の方角に去っていく。無頼の輩はいかにもまことにわしを襲うために岩松らが用意した者らしく、それを織田が先んじて制圧し、助命を条件にして利用したという。道理で岩松らが騙されたわけだ。
わしも家臣らも皆戸惑うておるというのが本音であろうな。ただ、最後に『ちゃっく』という言葉の意味を聞けなんだことは気になったな。
◆◆
松平広忠暗殺未遂
天文二十一年、六月。岡崎城の松平広忠が尾張の織田信秀に臣従を決断した。
松平家と織田家は広忠の先代である清康の頃から対立していた相手で、広忠自身は駿河の今川家の力により松平宗家を継いだという経緯があり、臣従には相当な苦悩と反発があったとされる。
しかし情勢はそれをも超えるほど変化しており、今川家の太原雪斎が西三河からの手を引く際には、松平広忠に今川として守ってやれずに申し訳ないと口にしたとも一部の資料にはある。
松平家内部には先に織田に臣従をした三河の国人衆との対立もあったようで、一部には武勇もなく臆病な広忠は松平宗家の当主に値せずと捕らえたうえでの隠居、もしくは暗殺を計画したのが今回の一件になる。
事の仔細は不明な点もある。太田牛一が監修した『三河物語』では、服部半蔵が久遠家の忍び衆の協力を得て謀叛人のあぶり出しをするために一芝居打ったとされる。
謀叛人の策に乗る形で彼らを蜂起させて捕らえたとあるが、具体的な様子はわかっていない。
ただしその際に久遠一馬の妻である、久遠春、久遠夏、久遠秋、久遠冬の四名が忍び衆を指揮して謀叛人をあぶり出すための策を講じたとある。
残念ながらこちらも具体的な内容はわかっておらず、『久遠家記』にも『三河物語』にもなく謎のままである。
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