第802話・新緑の午後

Side:久遠一馬


 草木の緑が気持ちいい季節になった。牧場では今年生まれた子馬や子牛が元気に育っている。


 オレたちが最初に持ち込んだヤギも順調に増えていて、一部は家中に贈ることもしている。当然まずは武士からだが。


 ロバは主に工業村や蟹江で使っている。疲れたりすると働かなくなるとかあるが、馬よりは餌代がかからないので結構便利だ。


 一番普及しているのはやはり鶏だろう。狭いスペースでも飼えて繁殖も難しくない。卵は薬扱いの食材として認知されているしね。


 輪裁式農業のテストもまあまあだ。といっても当初と違い、牧場では外で育てていない野菜や果物を育てているので、必ずしも効率がいいわけではないが。


「ここもいろいろ増えたね。欲を言えば牧場はもっと増やしたいんだけど」


 この日は牧場にて家畜の世話を手伝いつつリリーと話をしている。家畜の他にも犬の繁殖と訓練や伝書鳩もここで育てている。日本在来馬や牛の繁殖なんかは他で育ててもいいんだが、牧場の新しい候補地の美濃がまだ安定してないんだよね。


 北美濃や東美濃は山が多いので牧場向きな土地が多いんだけどさ。


「人材は育っているわよ。いつ独立してもやっていけるわ」


 牧場を担う人材は順調らしい。ここの担当は望月家だけど、当初に集めた領民も頑張って働いてくれている。望月家の家臣や領民には、新しい牧場が出来たら任せられるほど仕事を覚えた人もいるらしい。頼もしい限りだ。


「まあ、来年の春には美濃も落ち着いて牧場を増やせるかも。お公家様、さまさまだね」


 北美濃の東家は臣従を正式に決断した。義統さんの美濃守護に今回の公家の件が駄目押しになったらしい。田舎の国人とはいえ家には誇りを持っている。歌人として名を残した祖先の存在はオレが思った以上に大きいらしい。


 史実では東家を滅ぼした縁戚の遠藤家も一緒に臣従するようだ。無論、北美濃でも領地整理を行う。斎藤家が領地を半分俸禄にしたので、それ以外は領地をおおよそ三分の二は俸禄に変える。ただし本領が村一つのみのような小さな者は別だが。


「遠山家では戦になるんですって?」


「おっ、耳が早いね。リリー」


 あと今日の朝に入った情報だが、美濃の岩村遠山家も動いた。正式に臣従を申し出るようだ。あそこは氏族が藤原氏らしいからね。藤原氏の氏長者が来る時に蚊帳の外は困るらしい。


 この時代で氏族から切られると、元の世界で戸籍を失うほどの衝撃だからだろう。周りにお前らは本当に藤原氏かと思われると大変なことになる。


 そもそも義統さんが美濃守護になったのに臣従していないとなると、敵対するのかと言われても文句は言えないだろう。この時代だと。


 問題は苗木遠山家だった。あそこは直接織田家と交渉して認められようと動いていた。木曽川の水運で運ばれる木材の税を一部織田家に納めるとか、いろいろ譲歩して独立を維持しようとしていたんだ。


 そこに降って湧いた今回のお公家様パニック。岩村遠山家は我慢出来ずに兵を挙げても一族をまとめるつもりのようだ。他の遠山一族も同意見らしい。


 結果として岩村遠山家はこの件を道三さんに相談して、そこから清洲に報告が届いた。北と東美濃のごたごたをまとめているのは道三さんだからな。


 信秀さんは岩村遠山家が臣従するなら支援してもいいと言ったらしい。そもそも苗木遠山家は現在当主が不在だ。しかも苗木遠山家はお公家様パニックの影響で内部でも意見が割れているらしく、こんな時に揉めていないで法要には参加出来るように臣従するべきだという人も一定数いるらしい。


 まあ、この件はウチにはあまり関係ない。兵は斎藤家が主体となって美濃から出す。尾張からは俸禄にて鍛えている武官を精鋭として少数出すことになるんじゃないかな。


 彼らは元大和守家の家臣や、信長さんの領地の土豪などを俸禄として武官にした人たちだ。ジュリアいわく、そこそこ使える人材になってきたという。城攻めがあるのなら木砲くらいはウチから出してもいいが。


 兵数は三千から五千。公家衆が来る前に片付ける必要があるための数だろう。


「これで美濃はひと息つくわね。炭焼きと養蚕に牧場とか、普及させられればいいけど」


「数カ所で試していけば数年で増えていくと思うよ」


 リリーと一緒にのびのびと放牧地を駆ける馬を眺める。米が採れにくい地域とかこの時代だと厳しいからね。山が多い北美濃と東美濃をリリーも心配しているらしい。


 オレたちには人々を飢えさせない知識や技術はあるが、普及が難しい。牧場を管理するリリーはこの数年、その苦労を嫌というほど経験していたんだ。


 おっ、いつの間にか勉強を終えた孤児院の子供たちが駆け寄ってくる。元気な子供の笑顔がなによりの報酬に思えるね。


 あの子たちのような笑顔を増やしてやりたい。




Side:織田信光


「いかがだ? 此度の酒はいい出来だろう」


「ああ、悪くない」


 守山に造った酒造りの村の新酒が出来た。昨年から始めた酒造りだが、此度は特に上手くいった。清洲の兄者のところにさっそく持ってきたが、兄者も気に入ってくれたらしい。


「所領が減って不便はないか?」


「不便どころか楽になったな。酒もよく売れる。次になにを造るかと思うと楽しゅうて仕方ない」


 久々にふたりで酒を酌み交わす。織田も大きくなって兄者が忙しくなったので近頃はあまり飲めなくなったが、以前はよくあったことだ。


 庭に見える菜の花を見ながらの酒というのも悪くないと思うておると、兄者はわしのことを気遣うように所領のことを口にした。


 安祥の信広が所領を返上した際に、兄者と話してわしも自ら所領を半分返上した。すでに織田は所領の大きさなど必要なくなっておる。俸禄と酒造りの売り上げでかつてよりも暮らしは良うなった。


 家臣は減ったが、戦にて動員する数を気にしなければむしろ楽になった。


「次は料理に使うみりんとやらも造る。あれも足りんらしいからな」


 織田家は今、公家が来るからと騒がしいが、わしにはあまり関わりのないことだ。そういう場は兄者たちに任せるからな。


「そなたが商人の真似事とはな」


「下手に大領を得ると、今度は兄者や三郎と対峙せねばならなくなるかもしれん。そのようなことは御免だ。それにわしは良くても次が続くまい?」


「確かにな」


 嫌な世だ。血を分けた兄弟が疑心を持ち、殺し合う。本人にその気がなくとも戦わねばならなくなる時がくるかもしれん。かつてはそのようなこともあったのだ。


 ならばいっそのこと別の道を選ぶのも面白かろう。幸いにして手本は身近にある。


「公家が来れば、また尾張は変わるのであろう? わしには如何になるかわからんがな」


 天下。その一言が薄っすらとだが見えてきておる。そう思える時がある。とはいえ織田の天下は他家とは違う。


「わしにも朧気にしかわからん。だが……」


 兄者はそう呟くと、盃に入った酒を飲みこんで続く言葉も飲みこんだ。


 天が動き始めた。ここ、尾張を中心にな。


「面白き世を生きられるな。父上に土産話が山ほどある」


 自ら見えずともよい。信じることでそれを成し得る。兄者の恐ろしさはそこにあろう。


 さて、次は一馬のところに酒を持っていくか。



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