第792話・卒業の春
Side:久遠一馬
すっかり春の景色に変わりつつあるこの日、那古野郊外にある学校では、いつもと違った様子で慌ただしく働く人たちが見える。
「出会いと別れか」
吹き抜ける風はまだ冷たいが、春の暖かい太陽の日差しが心地いい。一緒に来たメルティは、今日のこの日の様子を絵画として残すために支度をしている。
そう、卒業の季節だ。もっともこの時代では年度という単位も概念もない。元の世界での年度という単位が制定されたのは、確か明治だったと思う。
現状の学校には入学も卒業もない。織田領の武士や領民と斯波家が認めた武田家の西保三郎君などいるが、自由意志による学問を学ぶ機会を与えているだけなんだ。
学校を始めて数年。早いもので学校にて勉強している子供たちの中には元服する子や、家督を継ぐ子が出てきている。
元の世界では義務教育が九年と高校大学で七年間勉強することも珍しくはないが、この時代だと読み書きと計算などの基礎的な学問を習得すると、あとは学問など不要だと考える人も多いんだ。
兵法や医学に大陸の学問を学びたいという勉強熱心な人も中にはいるが、大半は元服する頃には農作業の働き手などで働かせることや、武芸を鍛えることが一般的だろう。
現在、学校では卒業というシステムがなく、卒業証書に値する免状も出していない。ただ、学校で学んだ子供たちが社会に出始めていることで、今年から免状を与えて卒業式のように送り出すことにした。
この時代の常識としては数え年で年齢を数えるように、卒業式のような区切りは本来ならば正月にやるべきなんだろうが、正月は自宅で過ごすのが当然で元の世界よりも重要視する行事が多い。農閑期の冬を終えて、新しい芽生えのある春でどうかという意見でまとまった。
あとは年始に新たに子供たちを集めて卒業式をするのは大変だという意見もあったしね。
尚、古い行事として四月一日に
一部の教師陣からそれに倣い、扇を免状と共に与えてはどうかという意見があり採用している。文化や歴史を重んじるべきだという教師陣もいるんだ。織田家の方針を理解して、それに合わせてみんなが考えて意見を言ってくれる。
免状に関しては、それぞれ学んだことに対して出すことにしている。多くは初等免状という形で最低限の学問を学んだ免状だ。
学校では子供たち以外にも大人が増えていて、専門職も教えている。彼らにはいずれ専門の免状を出す予定だったし、卒業式も頃合いを見てやろうと考えていたんだ。
ちなみに免状の授与と卒業は同時に行うが正確には別になる。初等免状に関しては初期から学んでいる子供たちは十分な学力が付いたので与える。もちろん家庭の事情がない限りは引き続き学問を学んでもらうつもりだ。
あとはすでに学校を卒業して働いている信長さんの弟である勘十郎君たちにも、今日一緒に免状を与えることにしていて卒業式にも参加してもらう予定だ。
来年以降は免状を春に与えて、卒業式も一緒に行うことになるだろう。
「みんな張り切っているわ」
すっかり学校長として板に付いてきたアーシャは、教師陣や手伝っているウチの家臣たちを指揮しつつ感慨深げに見守っている。
価値観の違う人たちを教育していくのは、オレが思うより遥かに大変だろう。教師陣には褒美を与えるように信秀さんに進言しておこう。
「ご苦労様。子供たち、強く生きてくれるといいけどね」
「大丈夫よ。きっと活躍してくれるわ。みんな私たちから少しでも学ぼうと貪欲だもの。学問もそうだけど、新しいモノの見方や考え方とか学んでくれた子が思った以上に多いわ」
孤児院でも大人として働いている子がいるし、ウチの家臣になりたいと志願したので召し抱えた子もいる。みんな自分の現状に満足することなく、精いっぱい頑張ってくれている。
学校で学んだ子たちもそうなってほしいと願わずにはいられないが、アーシャたちは理想だけでも現実だけでもない。子供たちの実情に合わせた教育をしてくれたらしい。
「一馬か、ちょうどよかった」
アーシャと少し話し込んでいると、岩竜丸君がやってきた。彼には免状を与える子たちや卒業する子たちへの挨拶を頼んでいたようで、その原稿をみせてくれた。
「素晴らしいお言葉だと思いますよ」
岩竜丸君の挨拶は己や斯波家のためにどうこうしろというものではなく、学んだことを世の為、人の為に生かせという内容だった。
その内容に驚きと共に彼の成長を感じずにはいられなかった。史実では三河の吉良家との会談において席次で争ったという微妙な逸話を残している。それと比較すると驚きすら感じる。
そもそも織田学校と呼んでいるここの教育は、厳密に言えば元の世界ともこの時代とも違う独自のものになっている。学校内では可能な限り身分を持ち込まず、また学校内の問題は学校内で解決するという掟を決めた。
とはいえ生まれ持った身分や地位が完全に消えるわけではない。そこまで徹底出来ないし、逆に言えば徹底しては駄目だとオレたちは考えている。世の中には身分があるんだ。学校内だけ排除していいことなんてない。
アーシャや沢彦さんたちの努力もあるんだろうが、子供たちのほうがこちらの方針と現実を考えて上手く適応したという結果でもあるだろう。
「命を奪い合うのではなく、才覚と学んだもので生きて競う。壮大な夢だな」
いつの間にか子供たちや工業村の職人たちも準備に参加していた。同じ学び舎で学んだ者たちの晴れの舞台を祝ってやろう。そんな心意気を感じる。
岩竜丸君はそんな光景をオレやアーシャと眺めつつ、ぽつりと呟いた。
夢か。確かにそうだろう。武芸を重んじ、敵を討つことで己の名を上げて生きていくこの時代の人にとっては。
「若武衛様のおかげで夢が叶う日が早まるかもしれません。学校がこれほど早く上手くいくとは思いませんでしたので」
でもそんなこの時代の人たちが、オレたちの運営するこの時代では異質な学校において、新しい夢を一緒に見てくれる凄さを感じずにはいられない。
「そうだな。そなたは自ら立たぬからな。案外それが上手くいく秘訣なのかもしれぬな」
オレとアーシャの本音を探るようにこちらを見た岩竜丸君は、嘘や世辞とは受け取らなかったようでなんとも言えない顔でふっと笑った。
いいところを突いていると思う。オレがトップに立ち新しい世を創ろうとしても、これほど上手くいかないだろう。無論、武力で強制すれば別だが。
確かに知識や技術を持ち込み、改革を進めているのはオレたちだが、それには賛同して共に歩んでくれる人たちがいないと上手くいかない。世の中そんなに甘くないと思う。
免状の授与と卒業式の光景は不思議なものだった。元の世界の卒業式でもなければ、この時代の儀式や集まりとも違う。
体育館にてアーシャがひとりひとりに免状を与えていくが、座るのは床にイグサで作った座布団の上であり、免状をもらった子たちは深々と平伏してお礼の言葉を述べている。
学校を卒業して大人として働く子たちもまた元の世界とは違い、堅苦しい挨拶をして決意を述べている。
なんか違う。オレはそう感じるが、この時代の人たちはそんな子供たちを見て満足げに喜んでいるので、これでいいのだろう。
ただまあ、この後はみんなで宴をして免状と卒業を祝うことになる。そっちはもっと堅苦しさのない楽しいものになるだろう。
この学校の卒業生だと誇れるように頑張ってほしい。君たちの未来を導くことくらいはオレも手伝えるからさ。
◆◆◆
天文二十一年、春。織田学校において、免状授与式と卒業式が行われたと『織田学校史』に記されている。
当時の織田学校は近代教育の母と言われる久遠アーシャが運営しており、この免状授与式と卒業式も彼女の発想だと推測されている。
開校当時の苦労は関連する文献や手紙などで明らかとなっているが、学校で学んだ者たちがその後をどう生きていくかも考えていたとの資料もあり、免状を出すことで彼らの卒業後を考えていたようである。
現在の学校における卒業式は、この免状授与と卒業を祝う儀式が発端となっていて、織田学校ではこの年の第一回から数えて現在も長い歴史として続いていて、今も免状として当時と同じ製法で作られた扇が与えられている。
織田学校の出身者は身分を問わず共に学ぶことで、身分を越えて友情を深める者も多かった。また特に直接的な親交がなくても、織田学校出身という理由で信じるとまで言われていた時代もあり、織田学校の卒業生の繋がりが歴史に与えた影響は大きい。
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