第791話・その頃、吉良家は……

Side:吉良義安


 冬も終わりか。織田に臣従をしてから、一年になる。


 今年は餓死する者が出なかった。かつては冬の寒さや飢えで死ぬ者が何処の村でも出ておったことを忘れた者はおるまい。


 この一年でわしも多くの不満をこぼしたが、織田の力を嫌と言うほど感じたな。臣従直後には領内の村々を調べる者がやってきた。飢えておる者らには飯を食わせて働かせ、あらゆる品物の値も織田領と変わらぬ値になった。


 あれこれと口を出されたことに不満や文句も聞かれたが、民ばかりか寺社の僧ですら逆らうまではしなかった。以前はいつ裏切るかわからぬところに施しを与えるなど、愚かだと笑った者も多いにもかかわらず。


 今年の冬にはまことに死者を出さぬように差配したのだ。織田は奪うのではなく与える。そんな与太話をまことだと知ると、逆らうほど愚かではないということか。


「殿、面白うなってまいりましたな」


 いや、愚か者はまだおるか。顔を緩めて愚かなことを口走ったのが我が家臣だということに、心底嫌気がさす。


 原因は岡崎の松平広忠だ。どうやら織田に臣従するつもりらしい。衰えたとはいえ、松平宗家は西三河において軽くはない。今川か織田かと揺れる西三河において、この件を好機と見る者がおるのだ。


「これで松平と織田家三河衆が争えば付け入る隙が生まれまする」


 無能者ほど己が賢いと思うのか、謀をしたがる。今川の太原和尚や織田の久遠殿が聞けば呆れて笑われるであろう。


 確かに三河は荒れるのやもしれん。我が吉良家とて長年東西に分かれていたことで一族や家中には対立があるからな。まして数年前までは同じ家中だった織田家三河衆と松平宗家では、広忠がいかに命じても納得せぬ者は多かろう。


「隙など生まれるか? 関ケ原の二の舞いになるだけだ」


「左様。一捻りだ。もしかすると織田の謀かもしれん」


 もっともすべての家臣が愚かではない。松平がどうなろうが織田は揺るがぬことは、尾張を見ればわかることだ。


「誰ぞ。近隣の様子を安祥に知らせに行け。すでに探っておるやもしれんが、なにもせぬよりはよかろう」


 新参者が疑われるようなことをしてどうなる。万が一にも織田が負けて三河から退けば、その時はまた考えればいいのだ。仮に松平宗家が消えても吉良家が西三河を制するなどあり得ぬことだ。


「兄上、ここはしばし見極めるべきでは?」


 ああ、愚かなのは弟もか。様子をみてどうするのだ。まさかまことに織田と今川を戦わせて漁夫の利を得るつもりか? そのようなこと、織田も今川も承知のことであろう。


「松平ごときがどう動こうが、織田の優位は揺るがぬ」


「それはわかっておりまする。されど織田は吉良家を軽んじて甘くみております。この機会に吉良家の力を見せるべきかと……」


 吉良家の力か。この弟はまことにそのようなことが出来ると考えておるのか? 力があれば様子を見ようが、すぐに動こうがいつでも見せつけることが出来るではないか。あの久遠家のように。


「ならばそなたがやってみるか? ろくに働きもしておらぬ吉良家に、すでに織田は飢えぬようにと多額の銭と食い物を寄越したのだ。大恥では済まぬぞ」


 織田が面白くないのはわかる。とはいえ勝ち目のないのに裏切ってどうするのだ。松平宗家のついでに潰されるのが目に見えておるわ。


「それはそうでございますが……」


 隙あらば己で吉良家を継ぎたいという野心と覚悟があるのならば、やってみるがいい。再び吉良家が分かれるのはわしとしては困るが、このままズルズルと不満を抱えられるよりはいい。暗殺でも企まれると面倒だからな。


 とはいえそれほどの覚悟がないのだ。弟にも従う家臣にもな。松平広忠のところも似たようなものであろう。わしも広忠を笑えんな。


「よいか。吉良家は一方的に施しを受ける身分ではない。受けた恩の分は働かねば子々孫々まで恥さらしと罵られるぞ」


「はっ!」


 不満はある。とはいえ織田は領内には等しく飢えぬようにとしておるのだ。このままでは我らは、働きもせぬのに施しを受ける者と謗られるだけぞ。それだけはなんとしても避けねばならん。




Side:久遠一馬


 春の気配が日に日に増していくこの頃、那古野では城の改築とウチの屋敷を含む周囲の配置換えによる大工さんの賑わいが聞こえる日々だった。


 織田領では春の農繁期に差し掛かりつつある。


「農具もだいぶ普及してきたな」


 今日はメルティとすずとチェリーと一緒に、農業試験村と今年から新品種の米を植える村々の視察に来ている。


 農業試験村は別にして、他の村も元の世界では当たり前だった鉄製の農具が見られるようになった。


 無論、まだみんなが持てるほどではない。村の有力者や本家など力のある者が持っていたり、村共有の財産として持っていたりする程度だ。


 とはいえ尾張では村から若い貧困層が町に働きに出ていくこともあり、人手が余っているというところは多くないだろう。新しい農具で効率化を図る村が出てきていることはいい傾向だと思う。


「農具は輸出条件が緩いということもあるのよね」


 農具の普及は製造する職人が増えたことも要因だ。畿内からやってきた鍛冶職人が一番造っているのは農業や土木の道具になる。鉄砲は織田家による全量買い上げと輸出禁止を明確にしていて、刀や槍も今川など織田に敵対的なところには売らないようにしている。


 ただし農具、特に鋤や鍬は領外への輸出規制が緩い。鉄塊そのものにも言えることだが、堺、今川や武田など一部には売らないように命じているが、第三国を経由した流通は現状では防ぐのは難しい。


 どこまで規制して、どこまで許すか。これは織田家でも何度も話し合っていることだが、織田家で鉄を売らなくても西国の出雲などではたたら製鉄をしているし、海外から輸入することもあり得る。


 鉄製の農具程度ならば、その気になればすぐに模倣されることも確かなので、堺や今川に、今川と交戦状態の武田などには直接売らないようにしているが、あとはよほど悪質な者以外には売っているので需要が大きい。


 あとは刀剣や槍と違い、そこまで高い技量を求められていないので造りやすいということもあるが。


「よしよし、行くでござる!」


「いざ、狩りの時間なのです!」


 そんな村々の視察の途中で獣に荒らされた村があった。村の粗末な小屋に保存していた食料が食べられたらしい。すずとチェリーは村を荒らした獣を狩るために、村人や護衛の兵と連れてきた犬たちを引き連れて獣の追跡に出ていく。


 春になると獣の活動も活発になる。この時代では獣による農作物の被害は死活問題となるからな。


「獣を防ぐ柵とか欲しいとこだけど難しいだろうね」


「そうね。木材は需要が大きいから高いわ。鉄なんて論外よ」


 オレとメルティは村で休憩しながら害獣と農業の問題を話すが、これまた結構難しい。元の世界のような野生動物を守る法はないが、自然が多く絶対数が比較にならないほど多いんだ。


 当然ながら村や田畑を守る柵なんて作る余裕はない。織田領以外と比べると発展してはいる。とはいえ、ひとつ進めばひとつ新たな問題が浮かび上がるのが現状だ。


 もっともこの時代の人たちにとってそれは当たり前のことなので、誰も悲観などしていないが。


 まあ長い目で見れば考えることは多いね。




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