第785話・天下のゆくえ

Side:近衛稙家


「見違えるようになったの」


 春になったばかりであるが、病に臥しておる大樹の見舞いを理由に近江は観音寺城にやってきた。


 出迎えてくれた大樹は、随分と良い顔をするようになったのが一目でわかる。


「はっ、ご心配をおかけして申し訳ございません」


 管領代が亡くなり如何なるかと思うたが、こうして顔を見れば安堵するの。もっとも大樹はこのまま病を理由に将軍から退きたいと文を寄越した。その話をするためにここまで来たのだがな。


 顔を見る限り、将軍職にはなんの未練もないらしい。


「ほう、これは美味そうじゃの」


 とりあえず旅の話でもと、大樹とふたりだけで酒を酌み交わす。その際に大樹が自ら運んできたのは、ふたりで食べるには少し多いかと思うほどの鍋であった。


「某が作り申した。尾張で大智に少し習い、旅先でも師の飯を作っておりましたので。まだ未熟なれど殿下に是非召し上がっていただきたく」


 まだぐつぐつと煮えておる鍋には肉や魚が入っておる。大樹はそれを自ら取り分けると吾に差し出した。


 まさか天下の征夷大将軍が鍋料理を作るとはな。されど、これほど楽しそうな大樹を見るは初めてかもしれぬ。


「ほう、美味いの」


 まだ未熟と言えばそうであろう。とはいえ美味いと思うのは、贔屓目に見ておるからであろうか? 味は大智に習ったか。昆布などで出汁を取ったようじゃの。


 大樹とは周防で吾が三好と共に出立した後の話から聞いた。敵地でしかも不慣れな近海でも南蛮船は凄まじかったと喜々として語る様子に、静かに耳を傾ける。


 確かに瀬戸内の海では不利だとは吾も聞いた。とはいえ不利なら不利なりに戦えるということか。もっとも毎度もやれと言われると策を講じられることもある。負けるのかもしれぬがな。


「殿下、日ノ本はどこも貧しく、日々を生きるので精一杯でございます。唯一違うのは尾張でございます。尾張だけは今日ではなく明日のために生きております」


 興味深かったのは尾張の様子か。近江がまだ豊かなのは我も存じておる。東に行けばいくほど田舎であるがな。ただし、関東では北条が織田を見習い変わりつつあるか。


 肝心の尾張は明日のために皆で動いておるという。正直、話半分としても信じがたい思いじゃの。実際に会っておらねば一笑に付しておったかもしれん。


「とはいえ天下を治めるのは時期尚早じゃの。十年はほしいところと吾は見る。それに武衛も内匠頭も天下に価値を見出しておらん」


 大樹の話を聞いてわかった。武衛や内匠頭は、天下を治めることを本気で望んでおらんということがな。巻き込まれることを懸念してそれなりに備えはしておると思うが、自ら上洛する気はまことにないらしいな。


 畿内は古の頃から日ノ本の中心であった。されど武衛と内匠頭は久遠の知恵と力で、畿内など必要ない国にしようと望むか。


 わからんではない。関東もどちらかと言えば、そのようなところだ。畿内と関わるより己らで生きたいと望んでおる。


「大樹よ。再び旅に出るのはよい。だが将軍を退くことはならん。そなたがいなくなれば、おそらくは三好と六角が上手くいかん。それに管領は健在なのだ。跡目もめぼしい者がおらん」


 織田が如何なるかは、まだまだこれから次第じゃ。三好と六角の新たな当主も悪うない。されど大樹が退けば確実に世は荒れる。誰が大樹となってもそれは同じであろう。


「殿下……」


「遠くないうちに、管領は誰か別の者を将軍にしようとするであろう。諸国が、誰がどう動くか、今しばらく世の流れを見定めるまで待て」


 天下とは自ら取るものにあらず。世が求めてこそ、初めて取れるものなのだ。かつて武士の台頭もすべては時の朝廷と公家の失態の結果。世がなにを求めるのか、見定めるには時がいる。


「承知いたしました」


「すまぬの。三好と六角と斯波には吾からも頼んでおく。そなたは菊丸としてしばらく生きてみればよい」


 少し不満とも言えぬものを抱えながらも大樹は飲み込んでくれた。わからんではない。誰が大樹となっても戦と謀に悩まされる日々となろう。天下など捨ててしまえと思う気持ちもわかるのじゃ。


 こうして温かい飯が食えぬ身分など嫌だというのは当然のこと。


「大樹よ。繋いだ縁は大切にせよ。権威や力で屈せぬ者も世には多い。されど良き縁こそ、そなたを助けるものになるであろう」


 思えば大樹の旅は内匠頭が言い出したこと。あの男の人と世を見る目は確かだ。この先如何なるか我にもわからぬが、あの男には見えておるのやもしれぬ。


 大樹にとっても最後に頼れるのは六角か織田であろう。菊丸として世を見つつ、縁を深めることは決して無駄にはなるまい。




Side:久遠一馬


 梅の花が咲いて春がきたとみんなの表情が明るい。山の村では山菜が育ち始めたようで、さっそく送ってくれた。


 そうそう、ウチの那古野の屋敷の周りは引っ越しの真っ最中だ。ほとんど留守にしている重臣たちは、先に屋敷を空けてくれるようで引っ越しをしている。荷物とかは清洲や本領の屋敷に運ぶらしい。


「皆様の屋敷は、本当に広くなくていいのですか」


「維持にも銭がかかりますからな」


 この日、政秀さんが所用のついでにウチに来ている。今でも時々困ってないかと様子を見に来てくれるんだ。


 すでにお隣の青山さんの屋敷は空になっていて、ウチの屋敷とひとつにするために塀を壊したり、堀を掘るための縄張りをしている。


 そんな様子を見ながら政秀さんと那古野の整理の話をしていた。


「いや、ウチの屋敷が広くなると皆さんも同じくらいほしいのかなと思ったんですけどね」


 信長さんの重臣の皆さんはオレよりも古参の家臣になる。対抗意識とかあるのかとおもったが、そうでもないらしい。


 彼らの新しい屋敷に関して現在相談しているが、あまり広くしない方向で話が進んでいる。清洲にも屋敷があって、あちこちに屋敷があると維持管理も大変なんだそうだ。


 まあ清洲から那古野って近いんだよね。今は道もいいし、お市ちゃんとか岩竜丸君たちは毎日通っているくらいだからな。正直、屋敷自体がそこまで必要でないというのは、事前に話した際にオレも聞いている。


 青山さんには奥方が少ないからだと笑われたくらいだ。


「一馬殿は殿の猶子ですからな。誰も同じにしようとは思いませぬぞ」


 出る杭は打たれる。でも出過ぎた杭は打たれないんだよね。まあウチも信長さんの家臣の皆さんと交流はいろいろしているし、領地運営で相談に乗ったりもしている。


 よく話すし、お互いに理解しようとしている。うちの屋敷が手狭なのはみんな知っていたからね。


 しかし猶子って便利だね。信秀さんがウチの好きなようにやらせてくれるということが大きいんだけど。


 懐が深いというか、さすがは仏の弾正忠様だと言われる原因のひとつはそこもあるらしい。


 力ある者を押さえるのではなく好きにやらせるというのは、思った以上に難しくこの時代だとまずあり得ない。


「まあ平手殿とウチの屋敷は、戦の際には城の二の丸と三の丸の役目にもなるんですけどね」


 那古野城は住みやすいように改築はしたが、防備はあまり変えていない。そもそも周囲に敵がいないからね。最悪は清洲か蟹江に退くべき場所になるし。


 とはいえ隙を与えないためには誰が見てもわかる防備は必要だ。ウチと政秀さんの屋敷に滝川家と望月家の屋敷は、事実上、那古野城の守りの一部としてしまうことになっている。


 信秀さんも信長さんも正直、そこまで城の防備は求めていない。とはいえ家臣からするともう少し必要だと感じているのだろう。


 ウチの屋敷に関しては二倍以上になるから、いろいろ改築する予定で大工さんと相談しているところなんだよね。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る