第786話・因縁は忘れた頃にやってくる

Side:酒井忠尚


 忌々しい男だ。先代の跡も己ひとりでは継げぬ無能な男の分際で。いつまでも三河を己のものと考える愚か者が。


「しかし、まことに臣従など致すのか? 今川方と婚姻を結んだ者らは許すまい」


 まるで冬に戻ったかのような寒さの中、囲炉裏の火に当たる友が信じられぬと言いたげな顔で問うてきた。


 確かににわかには信じられぬことだ。成り上がり者の分際で、誇りだけは他国の守護にも負けぬ松平宗家が織田に降るなど。


「今川方に与する連中はすでに松平を見限っておるわ。織田に臣従するにしても今川に臣従するにしても、己で降ると考えておるようだな」


 松平広忠。一時は主君と仰いだものの、今川にも呆れられる男に先はない。わしは自ら今川家中に取り入って、ようやく松平と別に扱っていただけるように目処が付いたところで、矢作川の西側は織田が確実なものとしてしまった。


 意地を張っても仕方ない。下げたくない頭を下げて、安祥の三郎五郎様にわしは臣従した。その上、よくわからぬ織田のやり方にも必死に付いていこうと努力しておるところに、今更、松平如きが臣従だと?


 怒鳴り散らして、殺してしまいたいとすら思う。奴のせいで、我らがどれほどの苦労をしたと思うておるのだ。


「今更、臣従して大きな顔をされるのは我慢ならん」


「とはいえ清洲の殿は従う者は受け入れよう。いろいろと口煩いが、飢えさせることもなく働き場はくださるのだ」


 友は諦めにも似た思いのようだ。確かに清洲の殿は受け入れよう。国人風情など興味がないお方だ。大人しく従うのならばと、今川と織田の間で騒いでおった吉良家ですら臣従を許したのだ。


 領地をすぐに取り上げることは不満に思う者も多いが、病となれば薬をくれて飢えるとなれば食べ物をくれる。兵も上げぬ臆病者の今川などよりはいいと大人しく従う者が多いのも事実。


「向こうで勝手に自滅してしまえばいいのだがな」


「将監、つまらぬことを企むのは止めたほうがいいぞ。織田は松平のような愚か者ではない。謀などすぐに露見する」


「だが松平の中で争うなら止めはするまい?」


 ただ見ておるだけというのも芸がない。わしは自ら三河を統一しようとしておるのではない。それに松平の所領を我がものとする気もないのだ。


 されど松平広忠と、我らを裏切り者呼ばわりする奴に取り付く無能な国人たちが我が物顔で尾張に取り付くのは我慢ならん。


「わしは関わらぬぞ。それに万が一の時も助けぬからな」


「よいのだ。すべては織田家のため。わしは一文の利すら得る気はない。清洲の殿もご理解くださるはずだ」


 織田の殿は愚か者を嫌う。民を無駄に死せることをすれば確かに許されまい。されど松平宗家が勝手に家中で争うのならば放っておくとみた。


 そのまま潰してしまえばよいのだ。臣従した者も助けぬような松平などな。




Side:久遠一馬


 春祭りの準備も進み、桜の開花を待つこの頃。清洲城ではちょっと重苦しい雰囲気になっていた。


「ほう、未だそのようなことを考える者が家中におるとはな」


「申し訳ございませぬ」


 深々と頭を下げているのは安祥城の信広さんだ。周囲にはオレとメルティと、信長さんと政秀さんと信康さんと西三河に領地がある水野さんがいる。


 個人的には信広さんが謝ることじゃないと思う。


 三河の松平宗家が臣従をするという話は、すでに三河の織田領に広がったようだ。その余波で三河が揺れている。あそこには元松平宗家の家臣だった人たちが多い。彼らからするとあまり歓迎することじゃないらしいんだよね。


 ちなみに織田へ臣従していない国人や土豪の反応も様々だ。親今川の人たちは怒ったり呆れているようで、早くも西三河で戦があると思ったのか、夏の農閑期に向けて戦の支度を始めた人もいる。


 一方の親織田の人たちも実はこの決定には喜んでいない人も多い。はっきり言えば臣従する前にせめて西三河をまとめたいのが彼らの本音だ。どうも戦をしないで臣従をすると軽んじられると思っている人が多いらしい。


 とはいえ織田としては余計な騒ぎは困る。臣従を望むのならば、そのまま従う意思のある者だけで臣従してほしい。こちらの考えを水野さん経由で知った松平広忠さんは臣従を決断した。


 結果として西三河は不穏な気配があちこちにある。


「やったもん勝ちですしね」


 信秀さんも信広さんを責めているわけではない。とはいえ、今回わざわざここまで報告に来たのは、織田家三河衆の中に松平宗家の当主である広忠さんを暗殺しようと企んでいる人がいると密告があったからだ。


「確かに、隙を見せるほうが愚かではあるな」


 三河衆を束ねているのは信広さんだ。監督責任として確かに謝罪しなくてはならない部分もある。でもね。あの三河をよくまとめていると思うんだよね。元の世界の史実の逸話を思い出すと特にそう思う。


 信広さんに助け舟を出すつもりでフォローしたら、信秀さんも同意して若干呆れたように笑みを見せた。暗殺などはされるほうが愚かだ。そんな価値観が割とよくある。自分の身は自分で守るという考えからだろう。


「酒井将監か。聞かん名だな」


 肝心の暗殺を企てる人を、信長さんは誰だと言いたげな顔で訊ねた。


「三河上野城が本拠地で、矢作川の西岸にそれなりの領地がある国人でございます。元は松平広忠の重臣として仕えておりましたが、西三河の国人が次々と織田に臣従した際に共に臣従した者になります。三河衆でも特に立身出世を望む男でよく働く男であったのでございますが……」


 暗殺を企むと密告があったのは酒井忠尚。通称が将監。史実だと松平広忠とは別の扱いを義元からされていたようで、三河一向一揆と同時期に松平元康と敵対して最後は駿河に逃亡したと伝わる男だ。


 一応、うちでも要注意人物として警戒はしていたけど、織田には素直に従って働いていたんだよね。説明している信広さんも驚いているのが本音だろう。


 この件はすでに複数のルートで調査をしている。信広さんに頼まれてウチでも忍び衆が調査したんだ。限りなく黒に近く、なにか企んでいるのは確かと思われるのが結論になる。


「よくあることと言えばそれまでですな」


「そうね。私もそう思います。織田には従うが、許せない相手は許せない。人のやることですもの。当然こんなこともあると思います」


 ずっと無言で聞いていた政秀さんは仕方ない奴だと言いたげな顔をしつつ、特に驚きもなくよくあることだと平然と口にした。


 それに同調したのはメルティだ。確かに現在の忠義や立場と過去の恨みなどは必ずしも一致するわけではない。


 困ったことに松平宗家って現時点では家臣でもないし、多少誼を結んだ国人と同じ扱いだ。これが伊勢の国司である北畠家や、美濃の守護代家である斎藤家が相手なら止めるだろう。


 だが松平宗家は、かつて一時期三河を支配しただけの最近まで今川方だった国人。そんな認識が織田家の認識だ。


 はっきり言えば、三河では成り上がり者としか見られていないし、織田でも一時期調子に乗った成り上がり者という見方が一般的だ。


 むろん西三河に限定すると松平宗家はそれなりの領地と影響力が今もある。とはいえ現状では信広さんのほうが影響力はある。同じく西三河に領地を持つ水野さんが、信広さんの与力というか腹心のような立場で、三河においては信広さんに従いながら助けていたからね。


 どうも大人しく臣従して新しい関係を築こうと思えない人が多いらしい。美濃にも安藤さんとかいたしね。気持ちはわからないわけではない。


 だけどこの暗殺。史実の広忠さんの暗殺に相当するのか? 別に歴史の修正力とかあるわけじゃないが、人は同じなんだ。似たようなことが起こることはあり得ることだ。


 放っておくと殺されそうだなぁ。困ったことだ。




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