第780話・一馬、報告する
Side:久遠一馬
二月も半ばを過ぎると暖かい日が増えているが、この日は冬に逆戻りしたかのような寒さだった。冬と春がせめぎ合い、日を追うごとに春に近づいているんだと思う。
エルとお腹の子は順調だ。懸念があるとすれば、家中の人で気付き始めている人がいることか。出産経験のある人を中心に気付いている人が多いみたい。資清さんの奥さんであるお梅さんが箝口令をしいていて、今のところ問題は起きていないが。
「このようなこと、私が聞いてよいのかわかりませんが……、エル様は病でございましょうか?」
ああ、家中以外で最初に気付いたのはこの人。お冬さん。お市ちゃんの乳母さんだった。毎日のようにウチに来るからなぁ。エルの仕事量の変化とか細かい様子も見ているせいだろう。
エルの精神的な負担を減らすためにも、細かい案件の処理はメルティが代行している。そんなところにお冬さんは人払いを頼んできて、恐る恐る訊ねてきた。
「実は子が出来たかもしれないんだ。まだ兆候があるだけで、はっきりしないけどね」
気付いたのなら嘘をつくわけにもいかない。素直に現状を教えると驚いた顔をしたものの、すぐにホッとした様子で喜んでくれた。
「なんと。おめでとうございます。私は病だとばかり……」
聞いていいのかも含めて、随分と心配をかけたらしい。隠しておくというのも難しいものだ。
「清洲にも伝わっている?」
「いえ、久遠家の皆様は口が堅いので。今のところは……」
ちょうどいいから、どのくらいエルの噂が広がっているか確認するが、まだ大丈夫か。さっきもメルティと今後のことを相談していたんだよね。
「大殿には先に話したほうがいいかしら?」
「私が口を挟むことではございません。ただ、エル様は常に一馬様と共に出歩くお方。それが減ると噂になることはあり得るかと思います」
メルティは単刀直入にお冬さんに聞いていた。資清さんたちとも相談して噂になる前に報告をしたほうがいいとは決めているんだけどね。織田家に関してはお冬さんのほうが詳しい。
「ありがとう。報告したほうがいいね」
無理に隠すことでもないんだよね。報告のタイミングは考えていたが、それにお冬さんがここで知ったことを信秀さんに隠すのは良くない。彼女はウチではなく織田家の人間だ。
それもあって、聞いていいか随分と悩ませてしまったらしい。このまますぐに報告に行こう。
すぐに清洲城に登城したオレとメルティは、信秀さんと会うために取次を頼む。オレが目通りを頼むとほとんど待たされることはない。とはいえ仕事があったり陳情や織田家以外の人がいたりすると、それなりに待たされる時がある。
清洲城にはオレの部屋もあるので、そこに入って待つことにした。今日は寒いので、清洲城の奉公人の人が火鉢を持ってきてくれた。メルティとお供としてきたみんなと一緒に暖まる。
「目立つのは自覚しているけど、みんなよく見ているね」
「それはそうよ。機を見ることがなにより重要ですもの」
エルに関しては屋敷から出るなとか、そこまで神経質になってはいない。ただ寒い日や天気の悪い日は同行しない日が何日かあった。それだけなんだけどね。
まあ妊婦さんを働かせるのは良くないということで、賦役でも楽な作業や天候次第では室内の下働きに回したりとしているウチだけに、妊娠したかもしれないエルを働かせる姿は良くないという事情もある。
エルが妊娠しても働いていたとなれば、今後妊婦さんたちを楽な仕事に回したり休ませるのが出来なくなりかねない。エルでも働いていたのだから働くのが当然だという流れは困るんだよね。ウチは目立つから、特にそうならないように気を付けている。
「今日はメルティだけか。如何した?」
程なくして信秀さんと会うことが出来た。ただエルがいないことで少し疑問も感じた様子に見える。
ついでに土田御前と信長さんを呼んでほしいと頼み、人払いもする。なにかあったのかと信秀さんの表情が険しくなる。
「実は、エルが懐妊したかもしれません。まだそうかもしれないというだけで、ケティも断定出来ておりませんが」
まあ月のモノが止まっただけでも兆候と言えば兆候だ。特に正確に月のモノがくる人にとっては。
「やったか」
突然呼ばれた信長さんと土田御前も表情が険しかったが、オレが報告すると驚きと共に表情が緩む。信秀さんも本当に嬉しそうな顔をしてくれた。
「良かった。まことに良かったの」
土田御前など涙ぐむ様子さえ見える。もし元の世界で死別した本当の両親に報告出来たら、こんな風に喜んでくれたのかもしれないと思えるほど。
「近頃、エルがおらぬ時があるのはそのためか」
「はい、念のため休ませています」
信長さんも喜んでくれたが、同時にやはりエルがいない時があったことを思い出したようで、その理由を悟ったみたい。
最近では清洲以外にも、蟹江、津島、熱田に行く街道は舟橋が出来ていて、馬車で移動が出来るようになった。エルも馬車での移動は大丈夫なので一緒に来る時もあったんだけどね。
「本当は確実になってから報告をと思ったのですが」
「たわけ。早う知らせぬか。本領には知らせたか?」
「いえ、そちらもまだ……」
「早う知らせてやれ。皆待っておるはずだ」
和やかな雰囲気で少し笑いながらではあるが、怒られてしまった。『たわけ』と怒られたのは二度目だったか。珍しいから驚いてしまった。
「皆に気を使わせてしまうかと思いまして……」
「わからんでもない。とはいえ子は天からの授かりもの。無事に懐妊し生まれてくることを祈るくらいはしてやりたいものだ」
信秀さんも土田御前も義理の両親というか、本当の親のように扱ってくれる。この時代だと実の子でも一緒に暮らさないことも珍しくない。身分によっては気軽に接することが出来ないこともある。そう思えば実の子と変わらぬ態度で接してくれている。
オレの立場も偉くなってしまったからね。実の親のように接して時には叱ってくれる人は他にいないだろう。
「エルも初めての子。不安であろう。あまり期待をかけすぎてはいけませんよ」
「はい、心得ております」
土田御前は女性ならではの視点でエルのことを心配してくれた。実際にエルも期待と不安が入り混じっている様子だ。オレはなるべく負担にならないように接しているが。あとはケティとパメラに頼んでいる。
カウンセリングというわけではないが、明るくポジティブなパメラがこの件には最適なようだ。別にケティが暗いわけではないけどね。他人も明るくする性格がパメラの武器でもある。
「春も近い。よき報せだな。祝いに一杯やるか」
そのまま信秀さんは祝いにと酒を運ばせて一緒に飲むことになった。仕事のほうは、今日はいいのかな?
でも、こういう柔軟な対応が出来るところは戦国時代のいいところだね。
多くの人たちに祝われる。まあオレ自身がそんな立場になったんだろうが、悪い気はしない。
この時代に来て良かったと心から思う。生まれてくる子も、この時代と尾張を好きになってくれるといいな。
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