第776話・春を待つ尾張

Side:久遠一馬


 旧暦の二月は春の気配が僅かに感じられる季節になる。ロボとブランカの散歩でも春の気配を見つけては、二匹がクンクンと匂いを嗅いでは喜ぶ姿もある。


 流行り病は終息の傾向になりつつあるが、想定よりもだいぶ軽い流行で済んでいる。対策が功を奏したのだろう。関ケ原を筆頭にした国境では、結局のところ助けてほしいと頼まれると助けていた。


 宿泊費は取らなかったが、薬と食事代などは安くはない。銭を払えない人は春の農繁期までに働いて、それでも足りない場合には、一時帰国後の農閑期にまたやってきて働いて返すことになっている。


 経済的な植民地と化しつつある西三河や美濃の独立領はもとより、北近江にも影響が出つつあるが、そもそもの問題として浅井家が治めていた北近江三郡は六角領となったものの、地域のパワーバランスの喪失により地域内で戦にならない程度の争いが起きている。


 織田家としては巻き込まれないようにするしか今のところ出来ない。関ケ原を領有する不破さんとはその辺りの話をきちんとして連携を取っている。


 あの辺りには近江側に親戚がいる国人も多い。巻き込まれる形で北近江三郡へ関わるのは危険すぎる。


 六角家も相応に動いているけどね。関ケ原が近江からみて少し異質な土地となっているから、気を付け過ぎということはない。


 それと織田家では春の農繁期を前に、今年の作付けに関する計画の策定をしていた。数年の試験栽培の結果、塩水選別と正条植などの新しい農法で二割、久遠家が持ち込んだ米を新農法で作付すると最大で五割増えたという結果が織田家中に知らされたことで、やってみたいという問い合わせが多数あったためだ。


 正直、織田家直轄領でさえまだ百パーセントではない。まして国境沿いの領地では他国に情報漏れが懸念される。仮に作付けが上手くいけばいい。問題は他国が中途半端に真似して収穫が減ると戦になることだろう。


 また、洪水の頻発地域に水不足の地域など、細かな事情や土地の分析も最低限必要だ。


 それに基本的な問題として湿田では、正条植はそこまで意味のあることではない。稲の生育が良くなるし、草取りなどの効率も多少上がるのでまったくの無意味とは言わないが、期待しているほどでもない。


 あと三河の本證寺の寺領と三河では、綿花の栽培量を今年も増やすことになった。米や穀物に大豆などの生産も増やすので綿花一辺倒ではないが、麻は青苧で代替出来るので優先度が低く、代わりのない綿花の需要は大きい。


 驚きなのは、織田家がそれをウチの負担が少なく実行できていることだ。相変わらず難しい案件はウチに回ってくるが。信秀さんや信長さんや信康さんなどは無理に自分で判断しないで、ウチにアドバイスを求めてくるからね。


 とはいえ様々な情報から検討して決断を下すことは出来ていて、凄いなと心から思う。




「硝子で家を造るとは。久遠家の知恵は凄いな」


 この日、義統さんの嫡男である岩竜丸君が、ウチに硝子の温室の建築現場を見に来ていた。


 まあ彼だけじゃない。ウチが新しい試みを始めたと噂になっているようで、いろんな人が見学にくる。久遠諸島で現物を見た人の話も伝わっているんだろう。実物をみたいというのは当然の反応だと思う。


「儲けになるかは難しいところですね。硝子が安くはないので。それと実は硝子を板にするのが難しいのです。とはいえ新しい試みとして試すには価値のあることかと」


 あいにくと硝子はまだ入っていないが、骨組みというか温室の柱などは出来ている。岩竜丸君も硝子の窓が入っている斯波家専用の馬車を使っているので硝子には慣れているが、結構大きい建物になったからね。驚いている。


「今川と武田が争う間に、久遠家は更に先を行くか」


 アーシャの教育もあり、試行錯誤と研究ということは学校では知られていることだ。久遠家は明や南蛮から習うばかりではない。自ら試行錯誤もしている。その事実に尾張の人たちは驚くというよりは納得している。


 積み重ねとして習ったことも、元は誰かが苦労しながら考えて試行錯誤したことだ。そう知ることが今後の大きな財産になるはずだ。


「一馬、武田が今川に負けると西保三郎はいかがなる?」


 エルが温かい紅茶を淹れてくれたので、岩竜丸君と共にお茶にする。岩竜丸君はオレとエルを見て、少し間をおいて西保三郎君のことを訊ねてきた。


 武田不利。もしかすると今川に飲み込まれる。その事実はそれなりの身分の人には知らせていることだ。似たような立場でもあり、岩竜丸君は西保三郎君のことを気に掛けていると聞いていた。案じているんだろうね。


「特に変わらないかと。斯波家で受け入れた学徒ですから。今川に配慮をしてやる義理はありません。将来的なことでいうならば、帰る場所があれば帰る。ないならないで尾張に残られてもいいとは思います」


 オレの返答にちょっとホッとした顔をした。決めるのはオレじゃないとは教えたけど。義統さんにも聞きにくいことなんだろう。


「そうか」


「甲斐には嫡男がいますしね。もしかすると元服後も残られるかもしれませんね」


 西保三郎君。彼は織田と武田の誼を深めるために来たが、万が一の時には尾張武田家として家を残す使命がある。少なくとも今川との戦が落ち着くまでは帰らないだろう。


 斯波家としても織田家としても粗末には出来ない。公家の三条家の血も引く子だしね。


「なんじゃ、そなたも来ておったのか?」


 お茶も飲み終わるという頃、家臣が少し慌てて迎える。義統さんがお忍びでやってきたんだ。


 一応前触れはあった。十分ほど前だったけど。近くに来たので寄ったらしい。ウチは喫茶店にでもするべきだろうか?


「父上、硝子の家を見に参りました」


「ほう、奇遇じゃの。わしもじゃ」


 目的は温室かぁ。まだ硝子は入っていないのにみんな気が早いよね。


「一馬よ。このようなものがいずれ尾張に増えるのか?」


「いずれは増えると思います。板硝子の製造がもう少し楽になれば、もっと広まるでしょう。当面は新しい試みをするので精一杯ですけどね」


 親子で並んで硝子の温室の建築現場を眺める姿に微笑ましさを感じる。


 変わることに希望を抱き、夢を見る。義統さんはそれが出来ている。これは中々難しいことだ。まして権威もあり家柄もある。最初は傀儡として大人しくしていたが、織田家が大きくなるに従って、対外的な外交などの仕事が激増しているのに。


 時々、自分は傀儡なのに忙しいと笑い話をするほどだ。もっとも織田家家臣の皆さんは素直には笑えないが、そんな反応も楽しんでいる。


「都から参る公家衆には見せぬほうが良かろう。そなたのやることは目立つ。ここまで見に来るとは思えんが、帰るまで硝子は入れぬほうがよいかもしれん」


 しばし見入っていた義統さんが板硝子を見たがったので蔵から出して見せていると、ふと温室の影響を口にした。


「はい。そういたします」


 大内さんの葬儀か法要か。四月頃に行うことで調整が進んでいる。確かにこれ以上の刺激は不要かもしれない。


 こういう政治的な感覚は優れている人だ。ウチでも完成時期をいつにするかはまだ検討していた段階なんだよね。


「公家というのは厄介な者よの。殺しにかかった陶はたいそう恨まれておるそうだ。尾張守の官位は葬儀に合わせて剥奪される」


 義統さんが警戒するのも無理はない。都では陶が思った以上に影響が出そうなんだ。陶隆房の官位である尾張守の剥奪と、朝廷からの密使が葬儀に参加することでほぼ決まりだろう。


 さすがに朝敵までにはしないようだが、公家衆と手紙のやり取りがある義統さんは彼らの厄介さを骨身に感じるらしい。


 周防は相変わらずだ。実は陶が根回しをしていて、大友から迎えるはずの新しい大内家当主の話も雲行きが怪しくなっている。


 博多を通して冷泉さんが生きて尾張にたどり着き、大内義隆さんの葬儀が行われたことも伝わったからだろう。それに近衛さんが動いたのかもしれない。


 細川晴元がいない幕府が陶の味方をすることはないからなぁ。


 もともと大友宗麟はこの話に乗り気ではなかったと元の世界の歴史にはあったので、当然の反応だと思うけど。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る