第775話・甲斐の苦悩と平和な久遠家
Side:武田晴信
「おのれ! 今川め! 卑怯な!!」
信濃が騒がしい。その知らせに語気を荒らげておるのは小笠原信濃守信貴だ。小笠原長時と対立をして所領を追われた故に恨みが深い。武田の力で旧領奪還をもくろむだけに、武田の旗色が悪いことがおもしろくないのであろう。
今川が信濃に盛んに使者を送っておる。湯之奥のほうにも小勢で荒らしに来るようだが、むしろ信濃から攻められるほうがこちらは困るのが本音。見抜かれておるな。
さすがは今川にこの人ありと言われる太原雪斎か。織田に臆したなどと囁かれておるが、その力量に狂いはないと見るべきか。
とはいえ卑怯と口にした小笠原には家臣たちが渋い顔をした。今や東国一の卑怯者と呼ばれるわしの前で、敵に卑怯と口にするは憚られるのであろう。
父上を追い出し、せっかく北条と今川の双方と同盟にあったにもかかわらず、北条と今川が駿河の河東の件で戦をした際には、今川寄りの動きをしたことで北条の信を失った。
その後に和睦をまとめたことで体裁を保ったはずが、信濃の諏訪との同盟破りが一気に知れ渡ると北条はこちらを相手にしなくなった。
北条は我が武田や今川よりも、尾張の織田と誼を深めることにしたのだ。
しかも誰が広めたのか、わしの同盟破りが諸国に知れておる。今では京の都でも知られておって、都に置いておる家臣が肩身の狭い思いをしておると聞く。
仏の弾正忠は敵地の民すら飯を食わせるが、甲斐の鬼と呼ばれるわしは親を追放し同盟すら軽々しく破る信義のない者だと揶揄されておるくらいだ。
戦に勝てばよい。だが村上に負けて今川にも勝てておらん。弱き者の言葉など誰も信じぬのが世の習いというもの。
「御屋形様、塩は相模と尾張から得られるとのこと。安くありませぬが、致し方ありませぬな」
今川が甲斐との商いを禁じたようだ。駿河や遠江の商人が来なくなったばかりか、甲斐や信濃の商人が駿河や遠江に参っても売れぬと追い返される。
海がない甲斐と信濃では他国から塩を買わねば生きてゆけぬ。北条と織田に頭を下げて塩を売ってもらうように文を出したが、さすがに両家共に塩の荷留はせなんだか。
近いのは相模の北条であるが、あちらもいつ敵に回るかわからん。あまり縁がない尾張からも買っておく必要がある。織田はわしを信じられぬようで鉄は甲斐には売ってくれぬ。まさか塩もかと思うたが、今川の利になることを嫌ったか?
「信濃の小笠原は今川とは戦うまい。出てくるかわからぬが、こちらを攻めるというなら通すであろう。守らねばならん。なんとしてもな」
北条は上野の上杉との戦で忙しい。だが織田は落ち着いておると聞くが、何故今川を攻めぬのだ? 今が好機であろう。無論、信濃に攻め込むことも好機と言えるが。
尾張に送った者の話では、尾張は豊かな国で民が酒や菓子を食えるのだとか。甲斐では日々の飯すら食えぬ者がおるというのに。
織田は堕落しておる。攻めれば一気に落ちるなどと豪語する者も家中にはおるが、真田の寄越した文を見る限り、それはあり得ぬこと。
民が斯波と織田を信じて戦になれば立ち上がるというのだ。そう易々とはいかん。
倅からは尾張では珍しき料理が食べられるという知らせや、明の言葉を習い学んでおると文が届いておる。
鉄も豊富で武器にも鎧兜にも事欠かん。兵糧も常に多く持っておるというではないか。強き者とはああいう者らを言うのであろうな。
わしも負けぬぞ。ここで敗れれば甲斐武田家の存亡の機となる。今川は本気でわしを討って甲斐を得る気だ。おそらく織田と戦うために力を欲しておるのであろう。
強き者が弱き者を食らうのが世の定め。食われるのはわしか、義元か。どちらであろうな。
Side:久遠一馬
尾張は平和だなぁ。ウチでは家臣の結婚ラッシュが起きている。
相手は様々だ。信長さんの悪友から取り立てたみんなは、元は農民だったせいで最初は大変だったらしいが、今では久遠家家臣として周囲に認められている。
親戚縁者の娘をもらう人もいるし、同じ久遠家家中から娘をもらう人もいる。お花見の合コンとかやったけど、あのあとも家中の行事で一緒に宴をしたり海に行ったりと、未婚の男女の出会いの場は何度も作った。
まあウチに取り入ろうとする人も当然世の中にはいるので、相変わらず親戚縁者と揉める家臣もいるが、そのあたりは資清さんが頑張って仲介してくれている。
割合で言えば同じ家臣同士が多いみたい。オレもそれを勧めているからね。
あと、人が世話をしないと結婚を考えない人も中にはいる。また、この時代だと家長が結婚相手の世話をして当たり前なので、積極的に異性とコミュニケーションを取らず結婚をしない人もいる。
そういった人には、ウチで両親などと話して結婚相手を紹介することはしている。
オレ自身、恋愛結婚を百パーセント推奨しているわけではない。結婚相手を選ぶ基準に家柄や資産に相手の将来性があってもいい。愛や恋だけで結婚することが必ずしもいいことだと思うほど、結婚に夢を見ているわけではない。
ただ、一族や家の思惑だけで決められて、子供を産んで、生涯を屋敷に閉じこもって終わるような女性の現状は少しでも変えたいと思う。
無論、この時代だとそれが難しいことは理解している。ただし久遠家内ならば、多少なりとも変えられるはずだ。
「そうか。決めたなら反対はしない。でも結婚の相手くらいは好きにしていいんだよ」
そんなこの日、資清さんと望月さんが相談に来た。
まず望月さんには息子がいない。血縁で一番優秀な太郎左衛門さんを養子として、滝川家の娘を妻に迎える。そして資清さんの跡継ぎである一益さんは、望月家の娘を妻として迎える方向で調整したらしい。
オレと千代女さんの子が出来たらその子に継がせたいとも考えていたらしいが、子は出来ていないからなぁ。特に避妊とかしていないので偶然らしい。
太郎左衛門さんや一益さんには内縁の妻というか、世話をしている女性がいるみたいだけどね。結果として正妻は互いの家からもらうことにしたようだ。
この件に関しては十分お互いの考えや将来を話して相談した。特にウチは血縁を用いた統治や家臣の統率は考えていないからね。
「相談し熟慮した上でのことでございます。いずれはそうなりましょう。されど、もし明日にでも某たちになにかあれば、滝川と望月は今のように上手くやれぬかもしれませぬ。念には念を入れておく必要があります。また、娘たちも喜んでおります。外に出されるのではと不安に思っておったようで」
最後の最後で、本当にいいのかと確認するオレも良くないのかもしれない。資清さんはそんなオレの心情を察して説明してくれる。娘さんたちが喜んでいるのならいいのかな。
結婚後に上手くいくようにサポートをしよう。
実はこの件は、オレとエルたちの間でも意見が分かれている。オレは可能な限り政略結婚とそこからくる血縁による政治などはなくしたいが、メルティなんかは、当面はそれでもいいのではと考えている。
この件で具体的に助言したのはメルティだ。滝川家と望月家の関係をきちんと整えて、次代以降で緩やかに結婚相手をある程度でも選べるような体制を作るべきだと考えているみたい。
血縁を深めて一族や家を守るのはいい。ただし政略結婚からくる血縁での政治となると将来に問題を残しそうなんだよね。それは久遠家ではなくしたいところだ。
そうそう。益氏さんには血縁がある池田家の親戚の娘がお嫁さんに来るそうだ。こちらも事前に相談されて許可を出している。信長さんとか勝三郎さんともしっかりと話した。
滝川家から養子に入った勝三郎さんの親父さんはもういない。両家は今一度婚姻で縁を深めたいんだそうだ。
勝三郎さんもオレの考えを知っているから悩んだらしい。とはいえ池田家の家中や親戚からはそんな話があるんだとか。勝三郎さんも若いしね。年配の家臣や親戚の言葉は無視出来ないんだろう。
家を背負うということは一族や家臣たちを養っていくことだ。責任は重い。
まだ若いので信長さんと一緒に清洲城で統治の勉強をしつつ、将来の幹部候補として頑張っている。お母さんが信秀さんの奥さんのひとりで織田家中に対する影響力もある。
池田家はウチが尾張に来た頃から味方になってくれた人たちだ。尾張に繋がりの薄い滝川家やウチに織田家中の情報を教えてくれたりしていて、あまり目立ってはいないが世話になっている。
ああ、勝三郎さんには滝川家の血縁の娘が嫁ぐらしい。こちらも益氏さんの結婚と合わせて考えたみたい。
娘さん。久遠家との違いに困らないように支援してやらないと。こうしてしがらみが増えていくんだろうなぁ。まあそれが生きるということだろうけど。
勝三郎さんには史実では別の人が嫁いでいたが、この世界ではそれはなくなるのかもしれない。
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