第755話・送る者たち
Side:久遠一馬
冬の冷たい風と雨がちらついている天気に、天もまた悲しんでいると後世の歴史物には書かれるのかもしれない。
いつもは賑やかな清洲も、少し重苦しく感じるのは気のせいではないはずだ。
今日は大内義隆さんの葬儀なんだ。戒名は生前に自分で貰っているそうだ。『竜福寺殿瑞雲珠天大居士』。
尾張で花火が見たい。その遺言に少し胸が苦しくなった。正直、よくわからない部分もある。逃げもせず戦いもしなかった人。自ら死を望んでいたようにも思える。
だけど、次の世は尾張から動く。その一言に驚きと凄さを感じた。遥か山口にいた義隆さんが最後に尾張に行けと言うとはね。情報が限られているこの時代において、恐ろしいとすら感じるほどだ。
オレは資清さんや望月さんと共に、葬儀に出るために清洲の
葬儀の導師。いわゆる供養するお坊さんは、義隆さんが信仰していた
含笑寺も同じ曹洞宗ということで選んだようだ。他にも尾張、美濃、三河、伊勢など近隣の同宗派の寺から集めた人は総勢三百。歴史の皮肉か、ただの偶然か、史実の信秀さんの葬儀と同じくらいのお坊さんが集まった。
これだけの高僧を集めた礼金も凄そうだけどね。従二位の官位を持つ公卿なんだ。その名に恥じぬ規模にはなると思う。
喪主は冷泉隆豊さんだ。この時代だと葬儀の喪主は後継者を意味する。大内家再興という様子ではないが、尾張で冷泉さんを喪主とした葬儀をしてしまうと、陶隆房とか毛利隆元あたりが大内家の後継者となることが難しくなるかな?
西国は注視する必要がある。
「ああ、山口殿。そういえば山口殿は大内家の……」
寺の入り口で偶然にも鳴海城の山口教継さんと出くわした。この人は史実の有名人である。鳴海城の城主だが、史実だと織田信長の時代に織田の形勢が不利とみるや今川に寝返った人。結局、義元に殺されちゃうんだけどね。
史実では織田信秀に臣従していながら今川義元とも通じていた人。まあ国境沿いの国人なんて、何処もそんなもんなんだけど。この世界でも信秀さんには気に入られている人で、ウチの三河の対策なんかには割と素直に協力してくれていた。
今川家とはとっくの昔に切れている。多少警戒していたんだけどね。一年目の冬に三河の織田領で飢えさせないように動いていた頃から今川とは疎遠になっていて、情勢が織田に傾くと切ったようだ。意外と強かな人という感じかな。
「それは言わんでくだされ。確かに某の家ではそう教えられておりまするが、実は確かなことは某にも分かりませぬ。大内家と誼があるわけでもなく、冷泉殿の忠義を某が汚すことは出来ませぬ」
顔を見て思い出したが、この人って大内家の血縁だって言われていたはず。ただそれを指摘すると困ったように小声で実情を教えてくれた。
「まあ、ここで目立っても確かにいいことはありませんからね」
「痛くもない腹を探られるのは困りまする」
自分は大内家ゆかりの者だと出ていくと目立つが、命を懸けて首を尾張まで持って逃げてきた冷泉さんは美談として尾張ではすっかり有名だ。下手に動くと比較されて愚か者扱いをされるどころか、よからぬ野心があると思われかねない。
それにまあここで目立つと陶とかに恨まれるからね。本物であっても大内家再興とか言い出すには血筋が遠すぎる。
信秀さんにも気に入られていて、家中の立場も悪くない。ウチでなんかやるとそれなりに協力してくれるという、良くも悪くもそれなりの人。場を弁えているといえば、そうなのかもしれないね。
「お初にお目にかかります。久遠一馬でございます」
「貴殿が久遠殿でございますか」
そして挨拶をしたのは冷泉隆豊さん。実は初対面なんだよね。文武に優れた人であり、周防から尾張まで首を守り抜いた人には見えない穏やかな人だった。
「亡き御屋形様が会うてみたいと仰っておりました」
「私も会ってみたかった。あのような状況でなくば、それも叶ったのかと思うと残念です。奪うばかりではなく、国を富ませることを成しえた数少ないお方。大内卿が亡くなられたことで、日ノ本はこの先知ることでしょう。いかに陶が愚かなことをしたかと」
こちらをじっと見つめて語るその瞳に嘘偽りはない。そう思えた。オレも嘘偽りなく惜しい人だと思う。史実だと義隆さんの浪費が謀叛の原因ともなっているが、こちらが調べた限りだとそうでもない。
まあ公家にお金が掛かっていたことは確かで、山口の寺社なんかにも相当なお金が掛かっていたのも確か。とはいえ謀叛は陶隆房の無知と逆恨みにある。賛同した国人たちも、そのお金が自分たちではなく公家に使われるのが面白くなかったんだろう。
公家がいなくなった今、あの金が自分たちのものになると思うのかもしれないが、まあ無理だろうね。勘合貿易も再開は絶望的だし、大陸から密貿易した品が入っても、義隆さんや公家の添え状がないと値段の桁が違うだろう。
「貴殿と御屋形様が会えば、さぞ面白き話をされたのでしょうな。大内家でさえ御屋形様のことを理解せぬ愚か者ばかりだった」
「人になにかを伝えることは難しいことです。大内卿はもしかすると、伝えることを怠ったのかもしれません」
「伝えること?」
家臣が愚か者ばかりだという冷泉さんに、オレは少し違和感を覚えた。余計なお世話と知りつつも、そこを指摘したい。
「身分があれば家臣が察する。理想でしょう。ですがあまりに見ているものが違うと、理解することは難しいものです。私は日ノ本の外で生まれ育ったのでね。そのあたりはよくわかります」
きっと義隆さんが見ているものを周りは見えなかったんだよ。あまりに違うものを見過ぎて。尾張の力を見抜く義隆さんだ。無能なはずがない。ただ、それを周りに伝えたのかは疑問が残る。
「……確かに、御屋形様はお心の内を我ら家臣に話してはくださらなかった」
「残された者には残された者の役目があると私は思います。大内卿のことを私は知りません。ですが、隆光殿は知っているはずです。それを伝えなければ、誰も大内卿のことを謀叛で死した者としか知ることが出来ませんよ」
「久遠殿……」
なんというか生きる気力が乏しいように思えた。祈りの日々もいいだろう。それでも義隆さんがこの人に首を託してまで生かしたのは、生きてほしいからではと思う部分もある。
「御無礼を致しました」
なんともハッとした顔でこちらをじっと見つめている冷泉さんに、オレは頭を下げて話を終えた。少し言い過ぎたかもしれない。
とはいえ、伝えようとしないと伝わらない。それはオレも同じだ。きっと冷泉さんが生き残ったことには意味があるはずだから。
それを探してほしい。命ある者としての定めとして。
◆◆
大内義隆の一代記である『義隆公記』には、首尾にその執筆のきっかけについても書かれている。天文二十年師走に尾張の含笑寺にて行われた大内義隆の葬儀に際し、著者である冷泉隆豊が久遠一馬と初めて対面した時の会話がきっかけであると記されている。
義隆の葬儀は、曹洞宗の総本山である越前の永平寺から、百人を超える僧を呼んでの盛大な葬儀であったとされる。
その際に一馬が隆豊に対して、大内義隆公のことは隆豊が伝えねば誰も知ることが出来ないのだと語ったとあり、隆豊はその一言に大きな衝撃を受けたと書かれている。
大内義隆という主君のことを多くの人々に伝えたい。その時に隆豊は自身の生きる道を見つけたと言い、後に『義隆公記』を執筆したのだと書かれている。
隆豊が執筆した『義隆公記』は、きっかけとなった久遠一馬によって、当時の尾張で盛んであったかわら版の技法で量産されて、久遠家の商販路を通じて全国に送り出されており、後に陶の姓を名乗る者を途絶えさせたほどである。原本は久遠家が今も大切に保管していて、大内義隆の偉業を現代にまで伝える一翼を担っている。
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