第728話・蟹江にて
Side:久遠一馬
尾張では夏の農閑期が終わって、晩夏と初秋の収穫が進んでいる。三河や長島などで植えた綿花なんかも早くも尾張に運ばれている。収量はまずまずだ。
「あの辺りって、本当に難しいみたいだね」
「海が近い輪中でございますからなぁ。願証寺でも来年は綿花を増やすべきかと考えておるとのこと。殿のご意見が聞きたいと申しておりました」
ちょっと温泉に入りに蟹江に来たついでに湊屋さんと留守中の近況を話しているが、今年も市江島と長島の辺りの稲が良くないらしい。塩害と季節外れの強風で稲が倒れたりして収穫が少ないんだってさ。
綿花は塩害に強いからなぁ。しかし願証寺は変わったね。領内の方針について意見を求めてくるなんて。
「教えられる範囲で詳細を知らせてほしいって頼んでおいて。それを見て検討するから」
来年の話だ。急がないだろうが、もう少し情報がないと判断も難しい。まあ綿花は需要も伸びるだろうから増やしてもいいかもしれない。ただあまり偏ると全滅すると怖いからな。要検討だ。
「ふー、温泉が気持ちいい季節になったなぁ」
さて湊屋さんとの話も終わったところで温泉だ。温泉。
同行したエルと千代女さんは、ミレイとエミールと打ち合わせをしている。護衛の家臣たちには休憩してもらっているし、今のうちに久々にひとりでゆっくりと温泉に浸かろう。
蟹江の屋敷の温泉からは庭が見える。すっかり秋の景色になりつつある庭には、ミレイとエミールが植えたんだろうか? 前回来た時には気付かなかった、秋咲きのコスモスが見える。いや、蟹江で船大工を指導している鏡花かもしれない。あのふたりは花を育てるタイプじゃないからね。
肩まで浸かって風に揺れるコスモスを眺めつつ、ゆっくりと耳をすませると人々の喧騒が聞こえる。なんだか懐かしいような、落ち着くような感覚がするな。
ふと上洛の旅を思い返す。今回はそろそろ元の世界の歴史が、参考資料程度にしか役に立たなくなりつつあることを実感した。現実にはSFの物語のような時間の修復力とか、歴史を変える抵抗力とかは存在しない。ただしその分だけなにが起こるかわからなくなってきているんだよね。
もっとも歴史という資料に残らないこともたくさん知ることが出来た。六角定頼さんは荒れる世を憂いて、なんとか落ち着かせようと命を懸けている人に見えたし、足利義輝さんは個人と将軍の狭間で苦悩する若者だった。大内義隆さんに至っては世の流れと大内家の先行きを悟りつつも、ただその流れに身を任せていた。
みんなそれぞれに必死に生きていると実感できた。
「あら、せっかく来たのに私たちを放置している旦那様がいるわね」
「ほんとなワケ」
油断なんてとんでもないと気を引き締めていると、ビクッとしてしまった。足音を立てないように温泉に入ってこないでよ。ミレイもエミールも。
「ははは……」
うん。笑って誤魔化そう。そんなつもりはないが、口で勝てるほど口達者じゃない。
「それにしても、菊丸のことどうするつもりなの?」
ミレイとエミールはするするとオレの両隣に来てしまい逃げ場がないオレだが、この場には他に人がいないこともあって、ミレイはため息交じりに遠慮なく義輝さんのことを口にした。
「なるようになるさ」
言いたいことはわかっている。義輝さんにこちらの考えや手の内を知られることは相応にリスクがある。下手に刺激を与えて、足利幕府の立て直しをしたいと言われると困るというのが本音だ。
今のところその気はないようだが、旅をして故郷への哀愁が生まれたり両親や祖先への思いが生まれるとあり得ることではある。
それに義輝さん個人だけの問題ではない。足利幕府はここで終わらせないとこの先の発展の障害になりかねない。足利家と彼らが築いた秩序は壊しておかないと、義輝さんはよくてもその後に騒動になるだろう。
彼だけではない。公家や寺社もいつ敵に回ってもおかしくないんだよね。
「まさか、なにも考えてないワケ?」
「いや、考えているよ。それでも繋いだ縁が新しい時代を生むと思うんだよ」
エミールには無策かと驚かれたが、オレなりに考えてはいる。この時代で生きて、オレもいくつか学んだことがあるんだ。効率重視とリスク管理による改革は、確かに失敗も少ないだろうし最善かもしれない。
ただし、この時代にはこの時代を生きる人の思いと絆がある。オレたちはそこに一緒に入っていかないといけないと思うようになった。
「まわり道をしてもいい。戦うことになってもいいと思うんだ。たぶん、それがみんなの望む次の時代に繋がるはずだと思う」
ミレイとエミールはオレやエルが甘いと思っているんだろう。リアリストで現実をより厳しく見ているふたりだ。ただね。卜伝さんとの出会いが北畠家との関係を構築出来たように、義輝さんとの出会いもなにか意味があると思える。
押し付けではない可能な限りみんなが望む未来を、多くの仲間を集めて作るべきかと思うんだよね。
「そう。ならいいんだけど。ただし忘れちゃだめよ。革命で血が流れないなんてありえないこと。戦争がなくても血は流れるわ。必ずね」
すっと寄りかかるように体を預けてきたミレイは、囁くようにオレにそう告げた。
「わかっているよ」
わかっている。世の中、血が流れないと変われないことなんて。オレもエルもみんなも覚悟は出来ているはずだ。
いつか命を奪われる側になるのかもしれないということを。可能性は限りなく低いだろうけどね。
「まあ、私たちは楽なワケ。苦労は百二十三分の一だもの」
百二十三分の一。そうか、そうなんだな。お清ちゃんと千代女さんも加えるとそうなる。幸せは百二十三倍になればいいんだけどな。欲を出し過ぎかな?
「失礼いたします。背中をお流し致しましょうか?」
「あら、いいところに来たわ。千代女殿も入ってらっしゃい」
ふたりと顔を見合わせてふっと笑みが零れたところに、脱衣所のほうから千代女さんが声を掛けてきた。彼女とお清ちゃんは未だに一歩下がった立ち位置にいることが多いんだよね。
「失礼致します」
ミレイが声を掛けると千代女さんが入ってくる。
「留守中寂しい思いしたでしょう? 遠慮しなくていいのよ」
「そうね。出し抜くくらいしてもいいワケ」
招かれるように湯船に浸かった千代女さんは少し戸惑っていて、ミレイとエミールのおもちゃになりそうな気がする。
家族も価値観が違うんだよね。エルたちはオーバーテクノロジー関連は隠しているが、家族としては受け入れている。
すずとチェリーなんかも特にそうだ。他人行儀な言い方を止めるようにと何度も言っている。
まあこの時代の価値観だと家中の序列とかいろいろあるからね。徐々に慣れてくれればいいんだけど。
「あの……、そのようなことは私が……」
「いいからいいから」
「任せるワケ」
気が付くといつの間にか千代女さんが洗われていた。ミレイとエミールは戸惑う千代女さんを洗ってあげている。
そのまま美容の話になっているね。今から教育するつもりなんだろうか。彼女たちと同じ美容のお手入れをしていけば、千代女さんとお清ちゃんなんかも若さを保つことが出来るだろうね。
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