第724話・帰還
Side:久遠一馬
北畠家とは特になにかが話し合われることもなく、今後も誼を結んでいこうということで終わった。今回はあくまでも顔合わせと官位受領のお祝いということだけだった。
急激になにかを変えるのも、なにかを求めるのも慎重なのだろうとエルが言っていた。
大湊に戻ってきて、会合衆との宴に参加して今回の旅のイベントは本当に終わった。明日は尾張だ。正直、ホッとするのが本音だね。
「あちこちから陳情もあっただろうに」
宴も終わり、寝所となる部屋に戻ると北畠家のことを少し思い出していた。
もう少し実務的な話があってもいいと思ったが、北畠家からなにもない以上はこちらから切り出すほどでもない。
「自分の利にならないんだ。聞き流して終わりだよ」
「そうよね。いちいち相手にしていたらキリがないもの」
特に答えを求めたわけでもないが、ほろ酔いで気分が良さげなジュリアとマドカが北畠晴具さんの心情を推測して答えてくれた。
大湊が北畠家に穏便に済ませてくれるようにと根回ししていたのは知っている。対立しても北畠家に利はない。大湊は形式の上では伊勢神宮の湊であることで、オレたちも積極的に協力しているし、現在の儲けがある。
尾張の津島神社や熱田神社もそうだが、地域に格の高い寺社があると配慮が難しいね。特に伊勢神宮は朝廷と密接な繋がりがあるところだ。
伊勢で情報収集をしている忍び衆の話では、伊勢や志摩の水軍は佐治水軍の久遠船を欲しいと北畠家に頼んでいたようだし、宇治山田を筆頭に他の公界である自治都市は尾張との取り引きを大湊にほぼ独占されているのが面白くないらしい。
まあ敵対したり戦だと騒いでいるほどでもないらしいが、北畠家ならなんとかなるんじゃないかとあちこちから陳情はあったらしいね。ご苦労なことだ。桑名や服部のおかげかもしれないけどね。
「帰ったら少し休みたいね」
短期間にいろいろあった。六角定頼さんや近衛稙家さんや石山本願寺の証如さんとも会ったし、義輝さんなんか一緒に付いてきちゃったしさ。三好長慶さんにも会うことは会ったし。
「うふふ、休めるかしら?」
「どうだろうねぇ」
蟹江の温泉でも入って少しゆっくり休みたい。ただそんな願望を口にしたオレに意味ありげな笑みを浮かべたマドカに不吉なことを言われた。しかもジュリアもオレを脅かすように笑っているし。そんな確定フラグは要らないよ!
仕事は分担しているし、家臣のみんなも育っているんだ。オレの決裁が必要な案件は溜まってそうだが、そこまで大変なようにならないと思うんだが。
「みんな私たちの帰りを待っていますからね」
そこにエルも混じってクスクスと笑いながら種明かしをしてくれた。
ああ、そうか。みんな待っているよな。あちこちに顔を出してあげないと心配してくれていた人も大勢いるだろうな。この時代の旅は危険だから。
「いいさ。オレたちは船で戻るからね。そこまで大変だったわけじゃないし」
ちゃんとお土産もある。伊勢神宮のお札をたくさん書いてもらってきたんだよ。何度も寄進しているだけあって嫌な顔ひとつしないで用意してくれた。
神頼みが日常にある時代だ。みんな喜んでくれると思う。
そして翌朝、大湊の皆さんにお礼を告げて尾張に向けて出発する。ここからはすぐだ。
「尾張だ!」
懐かしの故郷が見えてくると織田家の皆さんが喜びの声をあげた。慣れぬ旅をするうえに、いつ寝首を掻かれるかもしれない他家に世話になっていたことで、可成さんや勝三郎さんなどの若い護衛としてきた人たちは緊張した日々を送っていた。
船が苦手な人も中にはいるしね。
「あれが尾張か……」
「蟹江ですよ。新しく造った港町になります」
そうそう、義輝さんも尾張への到着に少し感慨深げにしている。観音寺城から石山本願寺までは徒歩での旅をして、そこからは船での旅だ。しかも周防では海戦も経験した。
まだ本当の旅の厳しさを知らないだろうが、それはオレも似たようなものだしね。義輝さんはここらで一休みして、尾張や美濃なんかを見て回るといいと思う。
「礼砲用意! 各船、一斉に発射するよ!」
蟹江が遠くに見えたことで、リーファはすでに尾張でも恒例となった帰還の礼砲の準備に入るように指示を出した。
でもさ、港に人が集まっていない? まるで祭りでもしているように見えるほどたくさん。港を埋め尽くすほどの人がいる。
「三、二、一、……礼砲撃て!」
迫力のある大砲の音が大気を震わせた。
すでに桟橋が目視出来るほど蟹江の港が見える。そこにはたくさんの人が集まっている。港だけではない、町も本当に祭りのような賑わいだ。
「おかえりなさいませ。無事の御帰還、祝着至極に存じます」
出迎えに現れたのは、土田御前と義統さんの奥方様を筆頭に留守を任せている人たちだ。お市ちゃんも最前列でロボとブランカを連れて手をぶんぶんと振っている。
「賑やかじゃの」
「申し訳ございません。御帰還の噂がすぐに尾張に広まってしまいました」
義統さんが驚いた様子で挨拶を交わした土田御前に問い掛けたのも無理はない。何処からか笛や太鼓の音もするんだ。完全にお祭りだね。噂はしょうがない、佐治水軍の船が毎日尾張中の湊と大湊の間を行き交っているからね。
「よいよい。こうして出迎えてもらえるというのは嬉しいものじゃ」
信秀さんと顔を見合わせて義統さんが笑っている。国に帰ってきた。しかもこんなにたくさんの人に出迎えられて。嬉しいもんだね。本当に。
「おかえりー!」
「おかえりなのです!!」
船が接岸して次々と降りてくると、家族や家臣なんかが出迎えて喜んでいる。オレのところにはすずとチェリーが真っ先に駆け付けて、続くように他のみんなが駆け寄ってくれた。
「ただいま!」
年配の人なんか無事に戻って良かったと拝んでいる人までいる。孤児院の子供たちもいる。みんなとびっきりの笑顔だ。
「これが……、師が見た光か」
「左様。菊丸にも一度見せたかったものじゃよ」
ふと気になって義輝さんを見ると、あまりの光景に呆然としていた。
卜伝さんはその様子に満足げにして旅の意義を噛みしめているように見える。
あれ、ロボとブランカが見えないなと思ったら、お市ちゃんと一緒に信秀さんのところにいるよ。
信行君とか信秀さんの家族と一緒にいて、まるで家族のように信秀さんや信長さんに撫でられている。
予定外のこともあったが、みんな無事に戻って本当に良かった。
明日から、また頑張ろう。
◆◆
天文二十年晩夏、斯波義統と織田信秀は上洛して新たな官位を受領している。
義統は従四位下の右兵衛督、信秀は従五位下の内匠頭である。義統に関しては自身が既に持っていた官位の上位であり、信秀に関しては自身の国造りを明確に意識して、かつて朝廷がものづくりをしていた時の官職である内匠頭であったと『織田統一記』にはある。
また信秀の三河守は三河鎮護のため、この頃の武家としては異例の継続兼任となった。これは先年に起きた本證寺一揆が大きく影響したものと考えられる。
官位を私称することが多いこの当時、武士が正式な官位を得るには朝廷に献金などする必要があるものの、上洛しての官位受領は必ずしも必要だったわけではない。
ただし義統と信秀の上洛に関しては後奈良天皇が求めての上洛だったことが、山科言継の『言継卿記』に記されている。
旅の様子は太田牛一の『天文上洛記』に克明に記されているが、驚くべきは将軍足利義輝が、武術の師であった塚原卜伝の弟子のひとりとしてこの旅に同行したことだろう。
きっかけはかの有名な『観音寺の謁見』であったとされて、三好長慶との和睦や管領細川晴元との決別など、一行の旅が歴史を動かしたと言っても過言ではない旅だった。
一行は六角定頼、近衛稙家、三好長慶、本願寺証如、北畠晴具など、時の有力者と多く会っており、実際に大名同士が会うことが稀な時代としては珍しいものとなっている。
この中でも近衛稙家とは特に親交が深まったようで、当時周防長門を中心に西国最大の勢力を誇っていた大内家の内乱を察知して知らせたことで、稙家を後奈良天皇の密使として久遠家のガレオン船で運び、公家衆を救い出すということもしている。
これは大寧寺の変に繋がるものなのだが、当時西の京とも言われて勘合貿易もしていた大内家の内乱と滞在していた公家衆が危ういという知らせには、半信半疑どころか信じていなかった者も多かったと伝わる。
この時、織田は二度ほど陶と戦っている。一度目は山口の町から秋穂の湊まで逃げていた公家衆を狙い、賊に見せかけた兵が差し向けられた時に、三好水軍と共に今巴の方こと久遠ジュリアが率いる織田が撃退している。
二度目は公家衆を乗せて瀬戸内を戻る三好水軍を守るために
足利義輝と三好長慶の和睦、足利義輝の隠密旅、大内家の内乱からの公家衆の救出など織田方の上洛で世の中は動いていた。ただし、すべてが織田の影響かと言えばそうとも言えず、六角定頼は自身の健康不安から三好長慶との和睦を考えていたと思われ、大内家の内乱は織田が関わろうが関わるまいが起こったというのが定説である。
なお、最後の訪問地で北畠具教と織田信長と久遠一馬が、義兄弟の盃を交わした『霧山の誓い』が現代では有名であるが、大部分が創作となっていて事実とは異なる。
北畠具教が変わりゆく尾張を見て、北畠家も変わるべきだと悩んでいたのは確かなようであるが、この時に具教が自分には味方が少ないと言ったことに対して、信長が「同じものを目指すならば、共に戦う者はおろう」と語ったと記録に残るのみである。
具教は塚原卜伝の弟子であり、久遠ジュリアが塚原卜伝と互いに認め合う、師でもあり弟子でもあったことから三者は親交を深めたというのは事実となる。
ちなみにこの『天文上洛記』を基にした時代劇が、後に人気を博した『剣豪将軍忍び旅』となる。
荒れる世を憂いた将軍義輝が自ら世直しの旅に出るというもので、山口の町から公家衆を救出した逸話は自ら山口の町まで乗り込み救い出すという内容になっている。
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