第721話・最後の訪問先

Side:土田御前


「申し上げます! 守護様と殿の御座乗船、昨夜のうちに伊勢大湊に到着してございます!」


 無事、帰路に在るとの知らせに城の中が一気に賑やかになりました。私もホッとしたのが本音でしょう。殿や皆が戻らねば尾張は再び割れて争いが起こるかもしれませんでした。


「ふね?」


「ええ、皆が帰ってきますよ。市」


 久遠家の者から無事を祈るためには折り鶴を折るのだと聞いたとのことで、市は毎日折り鶴を一羽折っております。


 もっとも城で一番心配しておらぬのは市でしょう。久遠家の船ならば必ず帰ってくると信じて疑っておりません。供をした乳母が恐ろしかったと語るほどの荒れた海でも、市だけは日頃と同じように楽しげだったとか。


 そのせいで船に弱い者は軟弱者だと風評が広まり困ったほど。


「おでむかえする!」


「そうですね。神宮と北畠家を訪問されるとのことですので、あと数日は掛かりましょう。お戻りになる時には、皆でお出迎えに参りましょうか」


 嬉しそうに兄や姉たちに知らせに走る市に、走るのを止めるようにと言おうとして我慢します。今日くらいは大目に見ましょうか。


 されど無事に戻ってまことに良かった。此度は久遠家の船よりも陸路のほうが不安はありました。尾張や南蛮船には勝てずとも、陸路で少数にて旅をする最中に狙われるといかに殿でも如何ともしようがありません。


「御方様、よろしいでしょうか?」


「ええ、ちょうど呼ぼうと思っていました。菊丸殿のことで話しておかねば……」


「はい」


 市と乳母と入れ替わるように、私のもとに姿を見せたのはウルザ殿でした。すぐに人払いをして話すことは菊丸殿のことです。まさかそのような御方が同行しているとは。


「支度はなにも要らぬということでしたが……」


 殿からの内密の書状を読んだ時にはまさかと思いました。しかもこれはまだ、私と一馬殿の妻たちしか知らぬこと。いったいどうすればよいのやら。


「大殿がお戻りになるまでは、誰にも知らせぬほうがよいかと思います。こちらで念のため信の置ける忍びを待機させておきます」


「頼みます」


 武家の棟梁にて将軍職の御方が密かに旅に出るとは。迂闊としか思えません。いろいろ仔細はあるようですが、織田家に良からぬ争いを持ち込まねばよいのですが……。




Side:久遠一馬


「近頃は参拝に来る者が多くなり、ありがたい限りでございます」


 参拝を済ませて、宮司さんや尾張に来たことのある馴染みの神職の皆さんと話すが、以前よりも表情は明るい。参拝客が増えたことを活用出来てはいないが、気持ちとしては嬉しいようだ。


 史実の江戸時代にはお伊勢参りで賑わっていたというが、お伊勢参り、いわゆる伊勢講というものは室町時代中頃からあったという。飢饉や天変地異から逃れるために寺社にすがるのはよくある時代だ。


 ただしこの時代は治安悪化と乱世の影響か、お伊勢参りするのはごく一部のお金持ちくらいだろうな。


 ちなみに伊勢神宮参拝の一番の障害は関所だ。伊勢神宮は歴史ある神社なので東海道から伊勢神宮に繋がる伊勢街道を筆頭に複数の街道があるが、伊勢一国で関所が百二十を超えるほどあると聞く。


 街道を歩くだけで人別税として毎回銭が取られるのに、伊勢神宮まで行こうとする人が多いはずがない。


 もっとも道者どうじゃという寺社の巡礼者はいるらしいが、食うにも困るこの時代で関所を通っていくのはよほどのもの好きか、信心深い人だろう。


 坊さんは関所で基本的に無税という仕来りもあるので、坊さんは行けるのかもしれないが。


 前回の寄進の時にも感じたが、実際、大湊から伊勢神宮までも結構な数の関所がある、オレたちは大湊の会合衆が根回ししていたようで払ったことないけど。


 もったいないね。この関所を減らすだけで相当な発展が望めるのに。まあ目先の利益を捨ててまで発展を望むなんてこの時代の人には難しいだろう。


 北畠家の具教さんならある程度でも関所を減らす利を理解していそうだが、彼も現状だと嫡男でしかないしね。国人衆や土豪に寺社などあちこちの現金収入をやめろとは言えるはずもない。


 まあ佐治水軍はおかげで儲かっているんだが。強い佐治水軍相手にほかの水軍が通行税を払えと言えるはずがない。佐治水軍もあまり陸地に近いところを走らないで大湊まで行っちゃうからね。


 陸路と比較すると驚くほど安く、佐治水軍も儲かる。


 その分、伊勢街道の通行人は確実に落ちているだろうが、北畠家は大湊の賑わいのおかげで入る銭で潤っているので今のところ問題視していないらしい。


 中伊勢や北伊勢のところでは面白くはない人はいるだろうね。ただ北伊勢は代わりに尾張の賦役に人足を出して銭を得ている。一番貧乏くじを引いていると不満なのは現時点では中伊勢の連中か。陸路も大湊を結節点とした物流が増えて、税を取っているはずなのにね。


 水軍はね。佐治水軍とウチの船以外は沿岸を航行するので、当然ながら通行税は取っているらしい。以前と比較すると西から尾張にくる船が増えたので、そこまで急激に収入が落ちてはいないだろう。


 まあ伊勢と志摩では伊勢湾に来る船から目当ての通行税をとるために、水軍同士の小競り合いと勢力争いが増えたらしいが。




 伊勢神宮には一泊して、翌日には北畠家の本拠地である多気御所へと向かう。多気御所とは霧山城と言えばわかりやすいかもしれない。


 北畠家が南北朝時代に築いた城が霧山城で、麓にある普段住む館が多気御所になる。北畠家はもともと公家だ。立場も幕府守護ではなく国司。朝廷の官位により国を治めている。


 霧山城は山城らしく戦の際にはそこに籠城するらしいが、平時は御所に住んでいるみたいだ。


 南伊勢の交通の要所であり、かつて南朝のあった大和の吉野や伊勢神宮まで一日で行ける立地も魅力的な場所なんだとか。


 史実では信長さんに攻め落とされるまでは難攻不落の城だったというほどの場所だ。実は北畠家に招かれたんだよね。上洛と伊勢神宮参拝の根回しをした時に。


「おおっ、師もおられるとは思いもしなんだ」


 お昼頃になり、道中に出迎えとして現れたのは北畠家の嫡男、具教さんだった。塚原卜伝さんの姿に思わず嬉しそうに顔が綻ぶ。本当に武芸が好きなんだなとわかるね。


「美濃で偶然会ってのう。南蛮船に乗りたくて同行したのだ」


「ほほう、それは羨ましい」


 こちらも久々の再会らしく話に花が咲くふたりだが、卜伝さんはこちらを気遣ってか同行したのは自分のわがままだとでも言いたげな様子だ。そんな言い方しても、心配して付いてきてくれたのはわかるだろうに。


 卜伝さんは決して自分からは目立つことはしないが、確実にオレたちの旅の助けとなってくれた。懸案だった義輝さんとの対面が上手くいったのは、卜伝さんの功績と言わずしてなんと言えばいいかわからないほどだ。


 そのまま和やかな雰囲気で多気御所まで進んでいく。


「堅固な城であるな。さすがは北畠家だ」


「確かに、尾張はちょうどよい場所に山がないからな」


 夕方を目前にして見えた霧山城に信秀さんと信長さんが唸った。確かに簡単に攻められそうな城じゃない。しかも城下には結構建物がある。史実でも数百の家臣が城下に住んでいたという話があったらしいが、まさにそんな感じだ。


 さすがは南朝の大物であった北畠家だと感じる。


「悪くない城だ。だが清洲に比べると古い。それにもう少し海が近いところに本拠地があったほうがいいのであろうな」


 具教さんと一緒に来た北畠家の家臣は信秀さんや信長さんの表情に誇らしげだが、具教さん自身はそうでもないらしい。具教さんはウチの価値観とかやり方知っているからなぁ。


 断っておくが霧山城はいい城だと思う。交通の要所であり南伊勢や大和に睨みを利かせられる城だ。とはいっても伊勢全土の統治や、今後の発展を考えると大湊や宇治山田の町を利用するか伊勢湾の経済にもっと食い込みたいところだろう。


 もっともいかに北畠家が名門とはいえ、統治体制は国人や土豪の連合体を束ねる立場でしかない。まして名門だけに歴史があり国人たちとの関係も織田とは違う。


 具教さんがわかってもあまり変わらないのは、それだけ苦労が多いんだろうね。






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