第710話・遊女の旅
Side:遊女のお園
「そうか。良かったな。これは少ないが旅の足しにしてくれ」
あの人に言われるまま、私は山口を離れることにした。遊女屋の主人も喜んでくれたわ。すでに逃げられる者は逃げ出していて、残るは借金で逃げられない者や私のように行く当てがない者ばかり。
「お世話になりました」
「此度はまことに危ういらしい。わしも店を一旦閉めることにした。ほかの者も逃がす。縁があればまた会おう」
主人は借金がある者も逃がす決断をしたと、半ばあきらめにもみえる表情で教えてくれた。行く当てのない者は最終的にはご自身で連れて逃げるそうよ。
商売柄、いろいろな話が聞こえてくる。昵懇の武士が逃げろと教えてくれたのだと思うわ。
町が戦に巻き込まれると、遊女屋などは最初に襲われる。雑兵にとって重要なのは食べ物と女だけ。
頃合いなのだろうと主人も最後に呟いていた。
「お縁、いくわよ」
「はい! お園様!」
私は以前から下働きとして使っていたお縁を妹として連れていくことにした。共に身寄りがなく私に懐いていたこの子くらいなら育てられる。
あいにくと子を授かることが出来なかった私にとって、この子は他人とは思えない。
船着き場は混んでいた。山口から逃げ出す人がこんなに多いなんて。
お縁と身を寄せるように川を下り秋穂に向かう。あの人が言ってくれた南蛮船に乗れるのかわからない。でも駄目でも他の船で安芸にでも行こう。そう決めた。
「これが……海。それになんと大きな船!」
ああ、お縁は海も初めてだったわね。山口を出たことがないお縁は見るものすべてに目を輝かせている。この先に待っているのは地獄かもしれないのに。
余所者はどこに行っても歓迎などされない。私が働けるうちはなんとか食べさせていけるけど、安住の地などおそらくない。
それでも戦に巻き込まれるよりはいい。こんな小さな子が戦に巻き込まれて無事で済むはずがないもの。
湊で舟を出してもらい、黒く大きな南蛮船に行きます。
「これは……」
乗り込むことすら一苦労な大きさだわ。もしかすると門前払いかもしれないと思ったが、すんなりと乗せてもらえた。
「与吉様よりこれを預かって参りました」
滝川様というお方は、それなりに身分の高いお方のようね。着ている着物でわかるわ。あの人はただの素破じゃないのかしら?
「あいわかった。そなたらはわしが預かろう。尾張には余所者も多い。かく言うわしも元は甲賀の生まれ。案ずることはない」
歓迎されるなんて思っていない。どこか途中まででも乗せてくれたらそれでいい。そんな程度だったのに、信じられないことに滝川様は私たちを面倒見てくれるという。
嘘じゃないのかしら?
「そうだ。ひとつ頼みたいことがある。周防と山口のこと知りうる限りでよい。話してくれぬか?」
「はい。すべてをお話しいたします」
騙してどこかに売る? ありえないわ。この船の家紋は丸に二つ引き。足利家の家紋。どうやら斯波家の船のようだけど、三十路の遊女と十にもならない子を騙してなんになるの?
噂で聞いたことがある。尾張の久遠様というお方の船。黒く巨大で明や南蛮ですら恐れる船なんだとか。それって、この船のことではないのかしら?
あの人はいったい何者なの?
Side:久遠一馬
「こうして見ると危ういなって思うね」
ガレオン船にて沖合から秋穂の湊を見ていると、周防の現状がよくわかる。港には舟が出入りしているが、明らかに出ていく舟が多い。西の京なんて言われている山口に通じる玄関口なのに、まるで逃げ出すように出ていく人が目立つ。
「その割にやることは釣りだけか?」
うんともすんとも言わない竿を垂らしているのは信長さんだ。隣には義輝さんと藤孝さんや慶次なんかもいる。信長さんは早くも釣りに飽きたらしい。
「船は動かせません。この船が抑止になっているので」
対岸の様子と裏腹に船はのんびりとした時間が過ぎていた。卜伝さんはトランプに嵌まっていて、船室で義統さんや信秀さんと暇つぶしにとやっている。若いみんなは船上で鍛錬などをしているが、危ないので水練は禁止している。
結果的に時間を有効に使ったり楽しめる人はいいが、じっとしているのが苦手な人とかはちょっと暇らしい。
信長さんとか義輝さんとか。藤孝さんはそうでもないらしいが。
「ところで大智殿。そなたはなにをしておるのだ?」
「編み物です。毛糸の襟巻にするんです」
義輝さんは釣り糸を垂らしながら編み物をするエルを不思議そうに見ていた。エルのマフラーは人気になりつつある。初めはオレたちと信長さんやお市ちゃんが使っていたが、暖かくていいと評判になったのでいろんな人が欲しがっている。
家臣や忍び衆の年配者のお仕事にもしているが、身分のある人はエルが編んだものがほしいようで暇を見つけて編んでいるんだ。
一種のステータスになるんだろう。ウチからエルが編んだマフラーをもらうことが。信光さんがあちこちで、自慢するように見せびらかしていたせいかもしれない。
羊がまだ日本にいないので毛糸が貴重で高価な贈り物になることもあるんだよね。マフラーは。
「小舟が近寄って参りました!」
またか。魚が釣れない最大の原因は一日に何度も来る小舟だろう。村上水軍なんか水とか食糧を売りに来るしさ。商人も相変わらずぽつぽつとやってくる。
「女だな」
ただ今回来たのは、三十くらいのちょっと色気のある女性と十歳くらいの女の子だ。信長さんも何者だと訝しげに見ている。
船乗りが用件を聞くと、資清さんに手紙を預かってきたというので乗船を許可する。また忍び衆か?
女性から手紙を受け取った資清さんは、女性を安心させるように笑顔で女性と話している。忍び衆の彼女と彼女の妹らしい。
ウチは忍び衆の家族や協力者も危険が及んだら、助けるなり逃がすように指示を出しているので問題はない。素性はなるべく最後まで明かさないようにとなっていたはずだけど。まあ、現状は緊急事態だからね。
「お
釣れない釣りをやめて、やってきた女性であるお園さんに話を聞くことになった。
義統さん、信秀さん、信長さん、信安さんたちは当然として、卜伝さん、義輝さん、オレたちに資清さんや太田さんまでいるので、お園さんは緊張している感じだ。
無理もないね。遊女みたいだし。ただ彼女のおかげで忍び衆の現状や稙家さんの様子がより詳しくわかった。
「陶隆房という男はそれほど商いに疎いのか?」
「はい。私が直接聞いたわけではありませんが、陶様は明に出す船とその荷の扱いをまったくご理解されておられぬと、陶様の家中の方がこぼしていたという話は聞き及んでおります」
いろいろ話を聞くうちに面白い話を聞けた。信秀さんは文治派であり義隆の側近が何度も逃げ出したことから聞いていて、その流れで出た話だ。
陶隆房は商いや勘合貿易のことをほとんど知らないらしい。大内家としては尼子なんぞよりも勘合貿易が大切でそっちを重要視しているが、陶隆房はそれも気に入らないと怒っていたみたい。
その調子だと勘合貿易、史実同様に駄目だな。陶隆房は公家のことも無駄飯食らいだと罵っているらしいが、そもそも明から得た品を保証する添え状とか書いているのは博多の商人や大内義隆とか公家なんだよね。
陶隆房の添え状なんて誰も価値を認めないだろう。
大内義隆の官位や公家の権威で勘合貿易をして儲けているのに、それを邪魔だなんて。確証はないが陶隆房よりも公家のほうが稼いでいるんじゃないかね?
勘合貿易の品が畿内に流れる時、値が決まるのはそんな付加価値なのに。
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