第699話・残したモノ

Side:山科言継


「出立したか」


 静かに呟かれた主上が寂寥の陰を忍ばせておられるとお見受けするのは、われだけであろうか?


 時を同じくして管領は兵を差し向けて参った。それ故に寂しく思われるのだろう。戦をするわけでもなく都を荒らすわけでもない者たちが去ってしまうことに。


 大樹と三好の和睦が成ったことは喜ばしいが、それとて一時のものやもしれぬ。


「見てみたいの。尾張を。黒いと聞く久遠の船を」


 世は秋になりつつある。主上は差し込む日の光の先に尾張を見ておられるようにお見受けする。


 昨日は餅屋が大智殿からなろうた、うなぎ料理を献上したと聞き及んでおる。主上におかれては、久遠の知恵は下魚を上魚と変えるのかと大層驚かれておられたという。


 荒らして奪いゆくばかりの世で、自らの秘伝を残して伝えてくれた者たちに興味を持たれたのであろう。久遠の者と会えぬかと直に仰られた時には、吾も驚いたほどだ。


 主上の御心に沿い、なるべく従い叶えてさしあげたいが、今度ばかりは身分が違うので如何とも出来なかった。吾としては一馬殿ならばよいかもしれぬと思うが、要らぬ前例を作れば今後困ることになるやもしれぬのだ。


 無論、検討はした。密かに謁見ということも考えられぬわけではなかったが、大内家の内乱の件や、駿河の今川家が甲斐の武田家を相手に戦を始めたとの知らせが舞い込んだこともあり、一馬殿も長居出来なかった。


「旅の無事を祈ると致そう」


 吾らはなにも語れぬ。主上が都を離れることは難しきこと。そんな吾らの心情をご理解されておられる主上は、せめて武衛殿以下皆の旅の無事を祈ると席を外された。


 官位欲しさにその時だけ使者を参らせ、銭を積む武士たちに、主上は嫌気がさしておられた。官位を当然のものと考えて平気で都を荒らして焼く管領のことも、何故あのようなことをするのだと憤りを覚えておられたのは、公家衆で知らぬ者のほうが少なかろう。


 争いを望まれぬ主上は公家衆にですら御心のすべてを明かさぬお方だ。


 無論、武衛殿や内匠頭殿が尊皇と忠義忠勤だけで生きておるなどとは、主上とて考えておられぬ。とはいえ朝廷を尊重して思いやるだけでもこの乱世では貴重なこと。


 無事に尾張に戻れればよいのだが。




Side:中村五郎左衛門


「いい匂いでございますね。旦那様」


 捌いたウナギを焼いておると家人たちばかりか、通りがかった者たちまで何事かと店に来るようになった。


 この匂いだけで飯が食えると笑うお公家の御方までおられる。昨日には主上に上出来だった蒲焼きを献上させていただいたら、大層お喜びいただいたようで、これはなんだと騒ぎになったとの話も聞いた。


「しかし、これほどの技と秘伝を残していくとは。さすがは武衛様ですな」


「主上も大層お褒めになっておられたと聞く。もそっとゆっくりしておれば吾も会いたかったのだがのう」


 今も家人と馴染みの商人やお公家様たちが、身分も問わず珍しげにうなぎを焼くのを見ておられる。


 無論、これはわしも許したことだ。この技をわしに教えてくれた久遠家の大智の方様の許しも得ておる。秘伝のタレの作り方は教えられておらぬが、ウナギの捌き方や焼き方は教えていただいていて、誰に教えてもよいと申し付けられておるのだ。


 ウナギは精もついて体にもよいという。都がこのウナギ料理で少しでも良くなればと笑って許していただいた。


 秘伝のタレは尾張からわざわざ運んで来られた物をそのまま頂いた。今後も必要に応じて売っていただけるそうだ。秘伝の技とタレを少しばかりお世話をしただけで伝えていただいたのは、わしも驚きであったな。


 かつては三管領とも言われておった斯波武衛家。少し前まではそういえばそのような者もおったなと、笑い話にされるほど過去の者として都では言われておった。


 屋敷である武衛陣も荒れており、家臣が自ら雨漏りを直しておったほどだ。そんな武衛陣に義父が餅を献上したのが始まりだった。


 義父に何故武衛陣に餅をと聞いたら、年の瀬も迫った頃に武衛陣の下働きの者が、主のために自らの着物と引き換えに餅を売って欲しいと頼みに参ったのがきっかけだったという。


 苦労している時はお互い様だからと、義父はその下働きの者に無償で餅を持たせたのが始まりとなる。


 そのまま親交は続き、いつからか尾張の金色酒が都で騒がれるようになった頃、今までのお礼にと混じり物のない金色酒を頂いた時は驚いたものだ。


 金色酒は内裏に幾度も献上されておるようで、内裏からも僅かに頂いたが、まったく同じ混ぜ物のない酒だったのだからな。


 そして尾張から武衛様が上洛なさると武衛陣の者たちが嬉しそうに準備を始めた頃、武衛様が滞在されておる間の料理を手伝ってほしいと頼まれた。


 代々仕えていた台所方はすでにおらず、なんといっても武衛様が召し上がるものだ。万が一があってはならぬと頼まれると誇らしく感じたものだ。


 武衛様は僅かな滞在で領国に戻られた。今度はいつ上洛なさるのだろうなと思いつつ、いつか尾張に行ってみたいと思うようになった。


 わしはこのウナギ料理を都に根付かせて、少しでも皆を元気づけられるようにせねばな。




Side:久遠一馬


 やっと武衛陣の外に出たオレは、そのまま京の都を後にした。


 今回の上洛ではっきり理解したのは、城や屋敷でじっとしているのが思った以上につまらないということか。もっともそんなこと感じているのはオレとエルたちくらいだろう。信長さんたちにしてみれば『何を今更』なんだろうが。


 六角家の後藤さんとは都でお別れだった。彼はこのまま都に残り、三好と幕府の運営など話す必要がある。ここからは、山城の国入りの時からオレたちの案内兼見張りに付いた松永久秀さんが再び同行している。


 目的地は石山本願寺だ。史実の摂津の国は大坂、のちの大阪にある一向宗の総本山。ほぼ川舟で下るだけなので楽だけどね。


 ただそれでも三好方の護衛が三千人ほどいる。先日には細川晴元に従う丹波衆との戦があったばかりだからだろうけどね。治安もいいとはいえず、このくらいは必要なのだろうな。


「しかし、関所が多いな」


 道中で頻繁に止まるのは、都の近辺は関所が多いからだ。信長さんが少しうんざりした様子でため息をこぼした。


 せっかくの川下りなのに関所で頻繁に止められる。まだ近江の六角領は定頼さんが気を利かせたようで関所で止められなかったのでよかったが、山城に入ってからはずっとこんな感じだ。


 坊さんなら関所で税が取られないと聞くが、あとは取られるからなぁ。ここらは公家とかの関所や寺社の関所があったりと複雑らしくて、三好としても素通りとはいかないんだろう。


「ここらはまだいいほうじゃがの。たちの悪いところに行くと、足元を見て身ぐるみはがしに掛かるところもある」


 ただそんな信長さんの様子に、卜伝さんが旅の道中での体験談を話してくれた。


 この時代だと賊と領民の区別がつくほうが珍しいからね。田畑を耕す片手間で賊となる人なんていくらでもいる。だからこそ村が武装して閉鎖的になるんだが。


 関所も道や川岸で勝手に銭を払えと武装しているだけの連中が多いからね。ピンからキリまで様々なようだ。忍び衆の報告にもあり、危ないところは行かないようにと情報の共有をしている。


 ただ都に近い関所でしかも三好の護衛付きだと、そう理不尽な要求はされないので卜伝さんいわくマシらしいね。


「だから都の品物が高くなるんですよね」


 なんとかならないもんかね。とはいってもここは織田家とは無関係な場所だ。迂闊なことは言えない。


 坊さんだけが特権で関所は素通りだというんだから凄い。


 うん。ちょっと待てよ。素通りということは、坊さんが荷物を運べば余計な税を払わずに済むのか? 現に願証寺はそうして石山本願寺にウチの品物を送っているらしい。


 もしかして願証寺に輸送を頼めば手間賃を払っても安くなるのか?




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