第698話・都との別れ

Side:久遠一馬


 都での日々も悪くない。エルとジュリアとマドカとのんびり出来るからだ。


「うふふ、私の勝ちです」


「また負けた。エル、強すぎ!」


 先ほどからエルとマドカが囲碁をしていたが、どうやらエルが勝ったらしい。少し膨れた顔で抗議するようなマドカにエルは微笑んで応えるのみ。


 京の都に来てからもエルは自分の影響力を理解して計算して動いていたが、最初に音を上げたのは稙家さんだった。


 これ以上目立つと本当にオレたちのことを寄越せと言い出す人が出かねない。割と本気でそんな心配をしたようだ。気を付けたほうがいいと遠回しに義統さんに言ったようで、同じくそろそろ自重するべきだと思っていた義統さんや信秀さんの意向もあり、エルは料理もせずにオレやマドカと遊んでいる。


 まあ稙家さんからすると、オレたちの扱いで新たな争乱なんてごめんなんだろう。せっかく義輝さんと三好の和睦が成立したからね。


「殿、今川が動きました」


「そうか、動いたのか」


 そんな頃、今川が動いたとの知らせを資清さんが持ってきた。この知らせと大内の件を理由に、オレたちは京の都を後にすることになる。


 武衛陣の人たちにも伝えてあるし、餅屋の中村さんにも伝えてある。みんな別れを惜しんでくれているが、戦乱の時代だからね。長いこと領地を空にするのは良くないとみんな理解している。


 大内のところにいる公家への使者としては近衛稙家さんが直接行くらしい。山科さんかなとも思ったが、向こうには前関白である二条尹房にじょうただふささんがいる。そのためか自分で行くことにしたようだ。


「残念ですね。もう少し古の文化を体験できるかと思ったのですが」


 資清さんはそのまま信秀さんと義統さんのところに知らせに行ったが、意外なことにエルが京の都でなにも出来なかったことを残念がっていた。


 茶道や和歌に寺社の見物など、エルはエルなりにこの時代を楽しんでいる。なにより京の都の人たちと交流をもっとしたかったみたいだ。


 まあ難しいとは理解していたらしいけどね。


「アタシは楽で良かったけど。でも京は暇なのよね」


 マドカも京の都ではなにもしなかった。曲直瀬さんが思った以上にしっかりしていたことと、マドカ自身が表向きは医者としてではなくオレの奥さんとして来たので、なにも出来なかったというほうが正しいか。


 ここにはいないジュリアは相変わらずだ。とはいっても尾張から来たみんなや卜伝さんのお弟子さんたちと鍛錬するくらいだけど。義輝さんのこともたまに手合わせはしているらしい。


 義輝さん。現状では改名していないので足利義藤という名だが、菊丸という名で将軍ではない生活を送っている。


 史実では剣豪将軍とも言われていて、暗殺とか好んだとも言われるが、どうも話を聞くと晴元と側近の提案を承認していただけのようだ。暗殺に関しては隙を作るほうが悪いと教えられていたらしい。


 そもそも縁も所縁もない人を思いやるということ自体、あまり考えないようだ。義輝さんはそれを卜伝さんに教わったと言っていたくらいだ。


 将軍の権威を守り、将軍家を存続させるだけを考えればいい。そんなことばかり側近たちには言われていたそうだ。どうも暗に自分たち側近以外は信じては駄目だと教えられていたっぽい。


 半ば洗脳のようにも思えるが、エルはそんなものだと言っていた。


「そういえば幕臣たちはどうするんだろう?」


 義輝さんのことでふと気になった。置いていかれた幕臣たちのことだ。どうするんだろう。義輝さんは要らないという感じだ。京に来れば三好が使うか? それなりに氏素性は確かな人たちだからな。


「管領殿についていくか。三好に降るか、六角に行き病の公方様のもとに押しかけるか。どちらにしても疎まれるでしょうね」


 エルもどうなるか完全に把握はしていないらしい。このまま空中分解して無害化しないかな。正直毒にも薬にもならない人たちが多いんだよね。




 出立の日が明後日に決まった。今夜はお別れの宴だ。武衛陣の家臣たちは義統さんを無事に送り出せることにホッとしつつも寂しそうでもある。親の代から武衛陣を守ってきたんだ。当然だろうね。


 それはいいが、ニヤニヤと面白そうな笑みを浮かべて義輝さんを見ている人がいる。まだ若い十代半ばで高貴な身分らしい恰好をした人。名前は近衛晴嗣はるつぐさん。稙家さんの嫡男だ。内大臣であり内府と呼ばれる殿上人。元の世界では近衛前久さきひさとして知られている人物になる。


 稙家さんがお別れの宴にきてくれたんだが、一緒に連れてきたんだよ。義輝さんとは顔見知りらしい。


「そなた名前は? 特別に直答を許す」


「菊丸と申します」


「ほう、よい名だ。大樹の幼名に似ておるとは縁起がよいの」


 今日は極々内輪のお別れの宴なんで、尾張から来たオレたちと武衛陣の家臣に卜伝さんとお弟子さんたちしかいないが、それでも義輝さんの正体を知らない人もいるんだ。まあ察している人はいるだろうが。


 それ故に、菊丸さんとしてここにいる義輝さんと前久さんは身分が天と地ほど違う。前久さんはその違いを楽しんでいるような印象だ。十代半ばの人だしね。従兄弟だしそんなものなんだろう。


 なんというか目で会話している印象もある。上手くやりやがってとか言いたげな感じか前久さんは。まさかね。


「ほかの者も右兵衛督や内匠頭と同じように励むとよいのじゃがの」


 稙家さんはこれからまた旅に出るというのに機嫌はいいようだ。清酒を飲みつつ武衛陣の家臣が用意してくれたご馳走に手を付けている。


 しかし尾張と同程度の献金や献上品をと望むと、ハードルが上がり過ぎて逆に誰も来られなくなるよ。まあ冗談だろうが。


 前久さんには時々視線がこちらを向いて見られている。オレやエルたちが珍しいんだろうか? なんか思うところあるんだろうか? 挨拶程度はしたが、それ以上話してはないんだけどね。


 それにしても京の都に来て改めて感じたのは、この町の人たちが守ってきた長い歴史があるということだ。


 オレたちはそれを変えろといずれ言わないといけない。なかなか難しいことになるだろうなと今から思う。


 権威や特権は彼らには空気や水のように当たり前のものなんだ。どうなるんだろうね。本当に。




◆◆◆◆

 京都には面白い童歌が残っている。



 禁裏さんには入れるけども


 武衛(陣)さんには入れへん


 禁裏さんは夜暗いけども


 武衛(陣)さんには明かりが灯る


 禁裏さんのおくど(おくどさん…台所)の煙は一日おきで


 武衛(陣)さんのおくど(おくどさん…台所)の煙は朝~夕~二回


 武衛(陣)さんけなるぅ思うは三好さん


 武衛(陣)さんにあたんしはるは公方さん


 武衛(陣)さんにひっきり無しは商人あきんどた~ち~よ~


※けなるい…羨ましい

※あたん…恨み、妬み



 京都の人間はよく知る童歌であるが、この歌は天文二十年の斯波義統と織田信秀の上洛の際の様子の歌だと伝わる。


 応仁の乱以降、幾度となく戦火に焼かれて荒れ果てていたとされる都に、揃いの鎧を身にまとい、鉄砲や槍で武装して規則正しく歩く一行に京の者たちは驚いたという。


 斯波家の京の屋敷である武衛陣に関しては信秀により修繕されていたと記録にはあり、天皇家の住まいである禁裏よりも立派で堀や塀に囲まれた防備に優れた館であったとある。


 ちなみに、この時に大智の方こと久遠エルが京の都に伝えたのがウナギ料理となる。内陸である京都にて下魚と言われて好まれなかったウナギを開くことにより一気に上魚にと押し上げたと伝わり、時の天皇である後奈良天皇が好物としていたことでも知られている。


 ほかにも羊羹を献上したとの記録もあり、信秀が後奈良天皇の謁見を受けた際に、直々に礼を述べていただいたという記録もある。


 滝川資清の『資清日記』には、信秀や義統が一馬やエルを欲する者が出てくるのではと懸念していたとの記載もあり、当時の朝廷と武士との微妙な距離がわかる。


 なお京都のうなぎ料理は、この時に中村五郎左衛門が久遠エルにより伝えられた餅屋が元祖となり、現代まで当時の味とタレを守り抜いている。




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