第694話・参内と義統と信秀
Side:織田信秀
守護様と内裏に参内して驚かされた。本当に内裏の修繕も出来ておらぬのだな。壁の修繕もしておらぬとは思わなんだ。まさか雨漏りなどしておるまいな? 畿内や諸国の寺社や武士どもはなにをしておるのだ。
建前と本音があることはわかる。されど散々権威を使うておきながら、その権威を維持する体裁を整える銭すら出し惜しんでおるのか?
これでは権威自体がいつ消えてもおかしくあるまい。
「これが日ノ本の真の姿なのであろうな」
しばし悩んでおると守護様が誰にも聞こえぬような声で呟かれた言葉にハッとする。なるほど、わしも少し一馬に毒されておったのやもしれぬな。
人の体裁など見ておる余裕はないということか。隙を見せれば攻められすべてを奪われる。細川晴元のような男が治めておったということが現実か。
「遠路はるばる、よう参った」
重く苦しく感じる中で、主上が現れるのを待つ。
「度重なる献物、大儀である。主上にあらせられては尾張の献身と安寧を
主上と共に同席しておるのは、近衛公と山科卿ほかそれなりの公家がおる。これほど揃うとはな。
「すべては主上のおかげでございまする」
守護様もいつになく緊張されておるな。無理もない。わしも守護様も作法は学んだが、初めてのことなのだ。
「斯波右兵衛督、ひとつ訊ねたい。尾張はいかにして上手く治めておるのじゃ?」
場の気配が変わったのは、主上が自らこちらに問われた時だった。一言お声が掛かればよいという程度だったのではないのか? このようなことを問われるとは聞いておらぬぞ。公家衆ですらも驚いておるのがわかる。
「一言では申せませぬが、皆で力を合わせておることが一番の訳かと存じます」
守護様が困った顔をされつつ説明された。説明がこれほど難しきことを問われるとは思わなんだ。まさか久遠家に任せておるとも言えん。山科卿だけは察したのか、微かに笑いを堪える様子をしたわ。
「織田内匠頭。このような形でしか報いてやれず、我が身の不甲斐なさを感じておる。願わくはこの日ノ本を救うてたもれ」
「非力な身ながら誠心誠意、尽くす所存でございまする」
公家衆が更に騒めいたのは、わしに対してのお言葉だ。日ノ本を救えとは過大な言葉だ。尾張の田舎者にそこまで多くを期待しておるのではないと思いたいが。荒廃する世のせめてもの願いというところか。
「それと先日の菓子。まことに美味かった。あのような心配りまで致したのは、そなたが初めてじゃ。礼を言うぞ」
「もったいないお言葉。ありがとうございまする」
返事をして終わったと思うたが、まさか羊羹のことを言われるとは。菓子のひとつやふたつ機嫌を取るのに献上する者がおらんのか?
「すまぬな。少し話しておきたいと思うてな」
外はすっかり闇夜に包まれておる。内裏から下がったあと、守護様から内密に話したいと求められたわしは、夜更けを待って守護様の部屋に参った。
「いえ、某も少し話したいと思うておりました」
今夜は近衛公はおらぬが、公方様は相も変わらず武衛陣に滞在されておるのだ。内密に話しておるところを見つかり、なんの話だと聞かれても困る。ついうっかりと本音を言うわけにもいかぬからな。
「朝廷があれほど荒れておるとはな。聞いてはおったが、実際に見ると驚くばかりじゃ。いかがなると思う?」
「さて、そう易々と変わることはないかと思いまするが、万事安泰とは思えませぬな」
用件はやはり朝廷のことか。吹けば飛びそうとは言わぬが、あれではなにかきっかけがあれば滅んでも驚かぬかもしれぬ。
歴史を振り返れば朝廷が騒乱の元凶となったこともあるのだ。仕方ないとは思うが。だがこのままでは日ノ本は荒れてゆくばかりぞ。
「都に参って、改めて思うた。尾張の方策は少なくとも都よりはよかろう。とはいえ気になるのは一馬のことを随分と知られたことか」
守護様が渋い顔をされた。懸念は一馬のことか。確かに近衛公に知られたことが、この先の憂いとならねばよいが。
「近衛公は大丈夫かと心得ますが……」
あのお方は公方様を粗末に扱わねば、こちらにおかしなことはせぬはずだ。とはいえ愚か者はいずこにでもおる。
「弾正忠、万が一の時は……」
「某が天下の逆賊となり、新たな世の礎となりましょう」
「わしは戦など出来ぬが、そなたひとりに責を負わせぬ。斯波武衛家のすべてを懸けてやるわ」
足利家は最早いかがしようもあるまい。それは明らかとなった。公方様と近衛公ですらそれをおっしゃっておったほどだ。
敵となれば戦い勝たねばならぬ。たとえ相手が寺社だろうが朝廷だろうがな。都に来ると改めてあり得ることだと思わされた。
守護様もお覚悟がおありのようだ。ようやく見えた乱世を終わらせる希望を絶やすことは許さぬ。そんなお覚悟が見える。
「そうそう、公方様のことはいかが思う?」
「歳相応かと。三郎も一馬と会うまでは似たようなものでございました」
「確かにの。思うておったよりも、こちらの心情を理解しようとしてくださっておる。とはいえ……」
そのままため息交じりに障子をあけて空に浮かぶ月を眺めた守護様は、なんとも言えぬ様子で公方様について口を開いた。尾張におった頃は毛嫌いすらしておったことから考えると幾分良くなったと思うが、それでも複雑なものがあろうな。
一言で言えば童と変わらぬ。良くも悪くも純真だ。
「危ういの」
「はっ、まことに」
だがそれ故に危うい。細川晴元が褒められた男でないのは明らかなれど、政は綺麗事だけでは済まされん。武芸の稽古とは違うのだ。
こちらの与り知らぬところで好きに生きるならば、勝手にすればいいと思うのだが。守護様もそれを懸念しておられる。
恐らく地位や家を捨てるといかがなるのか、理解しておるまい。エルが念を押すように言うたが、あれでも随分と気を使った言い方だ。昨日までの家臣や親兄弟ですら敵に回って殺しに来てもおかしくないのだ。
仏門に入って大人しくするのが一番よいのであろうが、あの気性だ。無理であろうな。
「そろそろ今川が動いた頃でございます。それを理由に尾張に戻るべきでしょうな。大内の件はこちらとしては教えただけで十分。使者を周防まで運んだのちに、早々に引き上げるべきかと思いまする。あとは三好がなんとかするでしょう」
これ以上都に長居しても厄介事しかなかろう。今川を口実にさっさと戻るべきだ。今川が動けばすぐに知らせが届くはずだからな。
京の都を抑え天下を狙うのだ。面倒事は三好がなんとかすればいい。
管領代の病も気にかかる。六角の次代がいかがなものかは知らぬが、管領代より勝ることはあるまい。天下は確実にまた荒れる。もしかすれば我らが根源となるのやもしれぬがな。
まずは力を蓄え、法を整えて、敵に囲まれても揺れぬ国にせねばならぬのだ。畿内と足利家のことは三好と六角でなんとかすればいい。
「そうじゃの。このまま都におれば、エルのことも騒ぎ出す輩が出そうじゃからの」
尾張に戻ると言うと守護様はホッとした顔をされた。確かにエルも危うい。あの料理や菓子だけで寄越せと動く愚か者が出かねん。
やれるわけがなかろう。尾張の政の要はエルなのだ。朝敵にされてもやれんわ。
◆◆◆
天文二十年、斯波義統と織田信秀は内裏に参内して、時の天皇である後奈良天皇の謁見を受けている。
この謁見は後奈良天皇のたっての要望により実現したようで、厳しい世情にも拘らず上洛と謁見を実現したことに後奈良天皇が大層喜んだと山科言継の残した『言継卿記』に記されている。
ただし、後奈良天皇は密かに久遠一馬との謁見も希望していたというが、この時は叶わなかったと残念がったという記録もある。
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