第690話・菊丸君レベル1

Side:足利義藤


 払暁ふつぎょう朝課ちょうか、師と兄弟子たちや織田の者たちと共に鍛錬から始まる。兄弟子たちには余の素性を教えたようで戸惑う様子もあったが、こちらが真摯しんしであることを理解してからは上手ういっておる。


「今日はそなたも一緒か? 珍しきよな」


 ただこの日は、いつもは姿を見せぬジュリアがやってきたことに驚いてしまった。


「旅先だとさすがにね。女が朝から武芸に励んでもいい顔されないだろ。アタシはよくても他の連中や守護様に恥をかかせちゃうからね」


 観音寺城からここまで旅をしてきたが、ジュリアが鍛錬に姿を見せたのは初めてだ。道中の休憩の時に体を動かすのは見たこともあるが。


 武家の女が武芸を習うはようあることであろうが、武士が女に武芸を習うなどということは聞いたことがない。武衛やほかの者に遠慮しておったということか。


 鍛錬はいつもと変わらぬ。師は自ら鍛錬に励むからな。ただ一馬は相変わらず来ぬな。三郎は日々鍛錬に来ておるというのに。聞けばそれほど武芸が得手えてというわけでもないらしい。三郎いわく、それなりに出来るが本人が武芸をあまり好まぬという。


 相変わらずよう分からぬ男だ。掴みどころのなき男と言うてもよいが。


「ジュリア殿、少し皆に稽古を付けていただけませぬかな?」


「先生にそう言われると断れないね」


 しばし鍛錬を続けておると、師は唐突にジュリアに対して予期せぬ頼みをしたが、驚きておるのは余と与一郎だけか。あとの者は喜んでおるようだ。


「なっ……」


 与一郎の驚きの声が聞こえた。余や与一郎など相手にならぬほどの使い手である兄弟子が、ジュリアに易々やすやすと敗れたからだろう。


 師が自ら弟子入りを請うたという話は聞いておった。されどここまで強いとは思いもせなんだ。力では必ずしも勝りてはおるまい。にもかかわらず相手にならんとは。


「次は菊丸だね。やるかい?」


 幾人もの男たちを相手に、稽古をつけたにもかかわらず、少し汗ばむ程度でまるで疲れた様子がない。その様なうちに余の番となった。


「お願い致す」


 思えば、余に真摯な武芸を教授致したのは師だけであった。それまでは余の機嫌をとるような形ばかりの武芸で誤魔化されておったのだ。亡き父上でさえも武芸よりも政を学べと言うだけで余の話を聞いてくださらなかった。


 しかも肝心の父上の政とやらは、管領以下守護たちを争わせて潰し合いをさせるのみ。それでは世が治まることなどあるまい。


 余をひとりの武士として見据え於きしは師だけであった。あとは足利将軍家の嫡男であり将軍という地位しか見ておらなかったのだ。


 その師が光明を見たというのがこの者になる。礼を尽くして目前もくぜんに立つ。生憎と力量の差は明らかだ。余が勝てぬ兄弟子たちが相手にならぬのだからな。


「はあ!!」


 気合を入れて踏み込んで両手でしかと持ちし木刀を振り下ろす。女というだけで僅かに躊躇しそうになるが、相手は左様なことを致すまでもなく勝てる相手ではない。


「なかなかいい踏み込みだったよ。でもね。まだまだ経験不足だね」


 なにが起きた? 紙一重で避けたのだ。こちらが切り返す前に、あまり力の入りておらぬように見えるジュリアの一閃いっせんが首筋に優しく添えるように当てられておった。


 汗馬かんばの如く冷や汗が出てくる。まるで師のようではないか。間合いと見切りでこれほど見事に出来るものなのか? 余とさほど歳が変わらぬ若さで。


「ひとりでの鍛錬が長かったみたいだね。努力した分、経験を積めばいいさ。相手は人なんだ。なにを考えてどう戦うか、考えてみればもっと面白くなるよ」


 木刀をくるりと回して笑みを見せたジュリアの言葉に、余はますます武芸に励みとうなった。


 ふと初めて師が若き女性にょしょうに負けて師事したと噂で聞いた時のことを思いだす。あの時、家臣たちは笑いておった。あの塚原卜伝も女に負けてやって、南蛮船を持つ織田に媚びたのだと。結局その程度の男なのだと笑いておった。


 余はなにか仔細があるのではと思い、軽々しく師を見下した家臣たちを不快に思うておったが、その後に再び会うた師は純粋に負けたのだと語った。


 会うてみたいと思うた。しかし会えることはまずない。将軍という地位が邪魔だと思い始めたのはあの頃からであったのかもしれぬ。


 武衛の家臣の織田、その猶子のさいだと聞いたが、いくら武芸に優れておるとはいえ守護家の家臣の妻を呼び出すことなど出来ぬのだ。かと言うて出向いて稽古を付け受けることも許されぬ。


 気が付けば余は、すべて家臣の思うままに追認する以外は許されぬ立場だった。母と殿下は今しばらくの辛抱だと何度も言うたが、少し過去を顧みれば足利家は争いと和睦の繰り返しをしておるだけではないか。


 幸いなことに代々の将軍の政を学びたいといえば、さすがに教えぬとは言われなんだからな。考える時だけはあった。


「ありがとうございました」


 他の者と同じく深々と礼を告げて下がったが、余の手は震えておった。恐怖ではない。圧倒され、見晴みはるかし仰ぎ見る武に震えたのだ。


 旅に出てよかった。余は……、いやオレは菊丸だ。足利義藤は武の神髄に打たれ死んだのだ。




Side:久遠一馬


「なにもいないね」


 朝起きて、エルとマドカと武衛陣の庭を散歩している。ジュリアは武芸の鍛錬に行ったが、オレは遠慮した。朝から疲れることはしたくない。


 代わりにとオレたち三人と資清さんで庭の散歩に出たが、広い池には魚がいなかった。


「鰻の泥を吐かせろと命じておったので、ここでしておったようでございますな」


 普通は池に鯉とかいるんじゃないかと思ったが、どうもオレたちのせいだったらしい。みんなに振舞ったからな。身分が低い奉公人の皆さんはうな丼になって量が減ったが、それでもかなりの数になった。泥を吐かせるのもそりゃあ大変だよね。あとでお礼を言っておこう。


「衛生指導する? 忍び衆以外はまったくしてないわよ」


 朝が少し弱いマドカはまだ若干眠そうだが、一昨日と昨日で武衛陣の実情を掴んだらしく報告をしてくれた。


 忍び衆は衛生指導を忠実に守っている。どうも掟と同じ感じで考えているらしい。ただ他の武衛陣の皆さんは京の都在住だからね。尾張の改革もほとんど知らない人たちなんだ。


「しておきたいですね。流行り病もいつ起きるかわかりません。あと叶うならば、都の亡骸だけでも埋葬しておきたいところですが……」


 どうしようかと悩んでいるとエルも悩んでいた。まあ武衛陣の衛生指導くらいはいいか。とは言っても京の都の衛生状態が思った以上に酷くてエルも悩むようだ。死屍しかばねで増殖する病原体は、そうそう空気感染するものではないが、疫病の温床ではある。


 あまり出しゃばるとろくなことにならないからね。京の都は、まあ酷かった。下京は大通りにも拘らず生気のない人や孤児が地面に座っているし、ご遺体もあったみたい。これは大通り以外も酷いに違いない。


 それに問題というのならば御所や公家の皆さんの屋敷もボロボロらしい。御所なんか壁に穴が開いて中が見えるなんてコントみたいな状態らしいし。


 天皇陛下。この時代ではすめらぎみかどたてまつられ、主上とお呼びするが、そんな御方も日々のご飯すら危ういという時もあるんだとか。昨日あった餅屋の中村五郎左衛門さんも、そんな状況を見かねて毎日餅や食事を献上しているらしい。


 まあ餅座を束ねるらしいから百パーセント善意だけでもないのかもしれないが、武衛陣でも正月の餅を頂いたり時々差し入れをもらっていたらしいから悪い人ではない。そもそも善意による献上や差し入れにしても余裕がないと出来ないからね。商売に権威を利用するのはありだと思う。ウチもやっているし。


「まあ献上品と献金は多めにあるんだから、今回はあまり口出しをしないでおこうか」


 現時点での京の都への介入はリスクと問題が多い。四季の贈り物も続けるし、今回の献上品と献金でひと息つけるだろう。とりあえずそれで様子見だね。



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