第688話・都のあれこれと夕食の支度

Side:武衛陣の家臣


 父上から役儀を継いだのはいつのことだったか。もう十数年前になるか。都の留守居役。当初は家中でもそれなりの地位だったと何度も聞かされたが、先代の守護様が今川に敗れて以降状況が変わった。


 わしが今の守護様とお会いしたのは一度だけ。父上から家督を引き継いだ時に挨拶に出向いた時だけだ。


 これは後から聞いた話だが、守護様や元守護代であった大和守殿はこちらにそれなりの援助を送っておられたつもりだったらしい。多くはないが、暮らしが困らぬ程度は送っておると聞かされておられたらしい。


 ところがこちらに届いたのは雀の涙ほどになっておった。坂井大膳。すべてはあの男が勝手に減らしておったらしい。


 尾張におるわしの親戚や、武衛家と誼があった商人に馴染みの公家が助けてくれなければ、今のわしはなかったであろう。


 春から秋までは共に野山を巡りて山菜を採り、暇さえあれば釣りをして暮らしの足しにしておった。斯波武衛家は最早終わった。そう囁かれても致し方ない有り様だったのだ。


 そんなところからの守護様の上洛。父上も草葉の陰でよろこんでおるだろう。斯波家が都で暮らしておられた頃に使われた品々は一切手を付けずに残してある。幾ばくかのもちいるに耐えぬものは新調したが、あとはすべて大切に所蔵しておったものだ。


 昨今では公家でも暮らしに困窮してあれこれと外に出してしまうことがあるが、お家の品だけは手を付けず、おかげで我が家は借財だらけだったほどだ。


 もっともその借財もすべて弾正忠殿の計らいで返済していただいたし、あちこち傷んでおって、雨漏りも酷かった武衛陣も新築のように立派な姿に戻った。


 近頃ではずっと援助してくれた商人や馴染みの公家たちを、こちらが助けることも出来ておる。お互い苦労したからな。守護様が上洛なさると知らせが届いた時は、ささやかな酒宴で喜びを分かち合った。


 そして昨日、守護様がここ武衛陣に戻られた。細川や畠山などと比較しても決して見劣りせぬ立派なお姿でお戻りになられたのだ。


「苦労を掛けたな」


「もったいないお言葉、恐悦至極に存じます」


 到着なされて一晩ゆるりとお休みいただいた守護様は、物珍しげに武衛陣の広間を眺めておられた。過去に思いを馳せておられるのか、それともこれからに夢を見ておられるのかわしにはわからぬがな。


「積もる話もあると思うが、今宵は美味いものを食わせてやろう。久遠家の料理は京の都にも負けぬぞ」


 守護様と織田家の関係は本当に良好らしい。弾正忠殿と一緒に談笑までしておられるお姿に心底安堵する。問題ないとは聞いてはおったが、三好の件もある。


 そんな守護様から出た久遠家という言葉に興味をそそられる。この都でもすでに名の知れた存在だ。


 金色酒は言うに及ばず、久遠家の絹糸は稀に見る上物の品で、都の名だたる染織職人が血眼になって求めておった。当初はすぐに都に入ってくると思っておったようだが、久遠殿はあまり都に売ろうと思わなかったようで、わしのところにまで売ってくれとやってきた者がおったほどだ。


 結局わしが紹介状を書いてやり、尾張まで買いに来れば売るということで収まったのだがな。ところが今度は久遠殿が売っておる織物が凄いと帰ってきた商人が騒ぎだした。


 都も度重なる戦火に晒されて染織業も下火となり、ようやく復興しておった頃に久遠殿がそれ以上の品を少数だが売っておった。これに都の職人たちは焦りと怖れを募らせたようだ。


 尾張ではすでに染織の領内製造も始めておったことも焦りや怖れの理由らしいがな。


 肝心の久遠殿はいかなるわけか、連れて参った奥方と今宵こよいの宴の料理を作ると働いておる。天下に名の知れた御仁なのだがな。久遠殿に会いたいという商人たちが、いつでも参るのでよき頃合いになったら教えてほしいと待っておるのだが。


「そういえば、なんとも言えぬ匂いがしてまいりましたな」


「ふふふ、そちも驚くであろう。楽しみよのう」


 料理くらいこちらで用意致すのだが、用心しておることもあるのであろうか? それにしても、なんと言い表してよいのか迷うような匂いがしてくる。


 この匂いだけで飯が腹いっぱい食えそうだ。




Side:久遠一馬


 武衛陣の料理人には面白い人がいる。とはいってもここの奉公人ではなく、どうやら今回の上洛のために臨時で頼んだ人らしい。中村五郎左衛門さん。元の世界において朝廷に『御朝物』という潰した塩餡を餅で包んだものを、奥さんの父親である舅の渡辺進わたなべすすむさんと毎朝欠かさず朝廷に届けていたと言われる人。


 舅の渡辺さんは京の都の餅座の人らしいね。


 この時代でもすでに朝廷に御朝物を届けているようで、都でも名の知れた人なんだとか。食べ物は難しい。万が一なにかがあっては駄目だが、内裏に毎日食事を納めている中村さんだけは大丈夫だとわざわざ頼んで来てもらったようだ。


「ほほう、素晴らしい包丁捌きでございますな」


 彼は先ほどからウナギを捌くエルの手さばきを興味深げに見ている。最初ウチの料理ということで秘伝の技があるのだろうから見てもいいのかと訊ねてきたが、この人ならいいかなと許可をした。


 オレは知らなかったが元の世界では彼の店が未来まで残っていたようだし、こんな荒んだ時代で他人を思いやれる人は貴重だ。


 どうも武衛陣の家臣が困窮していた頃に助けられていたという事情もあるようだし。年始の餅代もない時でも欠かさず餅を頂いていたそうだ。


「なるほど。焼くのですな。しかしそのタレは……」


 オレはウナギまでは捌けないが、それなりに料理は出来る。一緒に出すじゃがいもと山菜の煮物を作りつつ、エルが大量のウナギを捌き終えると一緒に焼きに入る。


 しかし夏も終わりに近いとはいえ炭火での焼きは熱い。エルも額に汗が見えるほどだ。


 焼き方は蒸す工程のある関東風と蒸さない関西風の両方作るらしい。調理法を変えて鰻尽くしというところらしいね。


 メニューはひつまぶし、かば焼き、白焼き、鰻巻き、骨せんべい、肝焼き、肝吸いというウナギ尽くしになる。


 中村さんたちにも手伝ってもらい、料理の準備をしていく。


 ウナギのタレが焼ける香ばしい匂いが台所から辺りに広まっているんだろう。奉公人の皆さんがチラチラと覗きに来ている。


 ふふふ、ちゃんと皆さんの分もあるんですよ。メニューは少し違うけど、余りものじゃないから心配しないで。


 しかし、これって下手すると武衛陣の近隣にも匂いが広がるな。匂いが不快だとか苦情とか来ないといいけど。


「良い匂いがしておるな」


 ああ、匂いに釣られて菊丸さんがやってきた。別名将軍様。この人、どうも武衛陣に滞在するらしい。


 足利家の御所は室町第と呼ばれている御所が今もあるにはあるらしいが、荒れ放題なうえに放置されているみたいだ。なんでも義輝さんと先代の将軍様が近江に逃亡したあとに賊が入ってしまい、それ以降は荒れたままなんだとか。


 史実だと義輝さんが帰京した際に武衛陣に御所を移すはずだったんだけど、斯波家が権威を回復しつつある今、それはどうなるんだろう?


 今回はもともとお忍びでの帰京なので、このまま武衛陣に滞在して三好との和睦交渉を進めるらしい。


 防備が整った場所がほかには近衛稙家さんの屋敷くらいしかないが、そちらもそれなりに傷んでいるらしくここが一番安全だということだ。


 なんかこのまま武衛陣が仮の御所にされそうな予感も。京の都の支配権も三好側にあるし幕臣でも伊勢家などはすでに三好の下で働いている。義輝さんが自由になるお金は六角家の援助と各地からの献上品や献金しかない。


 それでさえ細川晴元と側近が握っていて、義輝さん本人が自由に使えなかったんだ。御所を用意するなんて無理だと思う。将軍家の体裁を整えるのですら、三好との和睦が成立しないと京の都では自力では無理だろう。


 詰んでいるよね。義輝さん本人はウナギに興味津々で御所のこととか考えてないっぽいけど。




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