第642話・その頃、尾張では……

Side:織田信秀


「市、三郎や一馬たちが戻ってくるぞ」


「ほんとう!?」


 一馬たちがおらぬからか、近頃は寂しそうにしておる市を連れて牧場村に来た。ここに来れば市が気兼ねなく遊べる友がおる。


 ちょうど来ておったロボとブランカと共に牧場を駆けて遊ぶ市や孤児たちに、城から今届いた関ケ原からの文の内容を教えてやると花が咲いたような笑顔になった。


「戦に勝ったのですか!」


「ああ、勝ったようだな」


「おめでとうございます!」


 孤児たちも案じておったようだな。皆で熱田まで戦勝祈願に行ったと聞く。


「これで東西が落ち着いたか」


「はい。浅井久政を捕らえたのは大きいですね。清洲で裁けば六角と朝倉に美濃統治を斯波家と織田がするのだと認めさせることが出来ます」


 正直、わしもホッとした。負けるとは思わなんだが、六角の出方次第ではいかがなるかわからんところがあった。


 思わずホッとしたところにリリーが茶を持ってきたので声を掛けたが、やはり久遠家の女は聡明でものが良く見えておるわ。


「裁きは守護様がするほうがよいと思うか?」


「はい。私はそう思います。斎藤殿も呼ぶべきでしょう。斯波家と斎藤家と織田が盤石だと示せます」


 六角と朝倉との話は清洲でするようにはかると関ケ原からの文に書いておった。当初は関ケ原か近江にて話すことも考えておったが、久政を筆頭に浅井方のかなりの者を捕らえたからな。ここまで勝つとこちらで主導権を握れる。


 しかもこのまま関ケ原の城と関所の賦役は続けて盤石なものとすれば、西の脅威が減る。状況を利用して己に優位なように動く。出来るようで出来ん。恐ろしい策だな。


「みんなで熱田さまに、お礼にいこう!」


「おまいりしたい!」


 ふと見ると孤児たちと市は戦の勝利の御礼に熱田神社に行きたいと騒いでおる。市はほかの姫たちより少しおてんばになっておる、一馬たちが甘やかすからな。


 ワガママが過ぎると乳母が困っておる姿が見えるが、正直わしは現状に不満はない。


「よいではないか。リリー、そなたに任せる」


 世の中は変わるものだ。城に籠り、子を産み育てるばかりが女の生涯ではない。織田の女は強く賢く生きてリリーやエルたちのように笑って暮らす女となるべきなのだ。


 学ぶべきところは学び、変えるべきところは変える。足利の世の習わしなど、足利の世の終わりと共に変えてやるわ。


「うふふ、畏まりました」


「甘いと思うか?」


「いえ、ご立派かと思います。子は喧嘩をしてワガママを言って甘えるのが仕事でございます。同じ時を過ごして親は親となり子は子となる。私はそう思います」


 わしもまた変わっておるのやもしれぬな。リリーに微笑ましげに笑われてしもうた。とはいえ子を育てるという意味ではリリーは別格だ。捨て子がこれほど生き生きとして立派になっておるのだからな。


「そうだな。三郎には仕方ないとはいえ寂しい思いをさせた」


 物心つく前から城を与えたのは、偏に武士として大きくなってほしいという思いからだ。それが間違ごうておったとは思わん。だが別の方法もあったのではと思う。


 特に一馬たちを見ておって思うのだ。同じ時を過ごすのが、いかに大切かということがな。


「世を変えるというのは難しいな。だが面白くもある」


 尾張が久遠家によって変わりつつあるように、日ノ本は変えなくてはならん。それを我が手で出来るということは面白くもあるな。


「ちちうえ! はいあげる!」


「わん!」


「わん!」


 この季節では珍しい好天の中、市と孤児たちが作った花輪をもろうた。


 子たちの純粋な笑顔というものは本当にいいものだな。




◆◆◆◆


 天文二十年四月。美濃国、関ケ原にて織田斎藤連合軍と浅井の戦が起きた。


 現代では『天文、関ケ原の戦い』と呼ばれているが、戦の根本的な原因は斎藤家が織田家に臣従しようとしたことだと織田統一記にはある。


 戦が起こった時点ではまだ臣従していなかったようだが、実質的には臣従状態だったようで、北近江にて勢力拡大と六角からの独立を画策していた浅井久政が、隣国美濃の斎藤家の方針に不満を持ったのだと同年代の資料にはある。


 時に斎藤家当主は斎藤利政で、嫡男となる斎藤義龍の正室が『近江の方』と称される浅井久政の妹であり、すでに世子を儲けた間柄であった。久政は美濃の斎藤家との婚姻と血縁で東の安全を確保していたが、斎藤家は織田に臣従することになると話が違うと激怒したようである。


 しかも近江の方と久政はお世辞にも関係がいいとは言えなかったらしく、近江の方が久政を嫌って見限り、織田信秀に自身と世子たる息子の保護を願い出たと織田統一記を筆頭にいくつかの資料に書かれているが、当時の時代的にそれが許されるのかという議論もあり、真偽が現在も討議されている。


 この一件、一部では六角家や京極家による謀略説や、六角家内部にあった反織田の勢力が暗躍したという説もある。また織田による北近江への謀略説もあるが、織田は浅井領であった北近江三郡を攻める機会を放棄しており、確固たる証拠はない。


 また、この戦は信長が大将として本格的に臨んだ初めての戦であった。


 織田家では莫大な資金を使って松尾山に関ケ原城を築城したばかりか、その支城やかつて不破の地にあった関所の再建をするなど、この一件への力の入れようは浅井とは比較にならず、当地の国人であった不破光治が織田は恐ろしいとこぼしたとの逸話が残っている。


 もっともこれらの築城や関所は、浅井よりは六角や畿内の諸勢力への対策という意味合いが強く、該当地域を押さえることで尾張と美濃の領地を守るばかりか、東山道を押さえることで畿内への流通を制したいという思惑があったと思われる。


 この策は久遠一馬の献策だったようで、築城から戦の陣地構築まで久遠家が主導していた。一馬の奥方である久遠ウルザが先遣隊の大将として正式に名が残っているほか、城の設計などは大智の方こと久遠エルがしたものとなる。


 戦の差配は信長自身がしたようだが、築城の配置からして戦の全体像は久遠家の献策が基になっているのは疑いようのない事実である。


 信長は大うつけと呼ばれていたこともあり、また装束に関してはこの時も公式の場以外は相変わらず当時としてはだらしないと見える装束だったようだが、戦の差配に関しては諸将の立場や心情を配慮したものだったようで、美濃衆と当時言われていた美濃の国人たちが驚いたとの逸話も残っている。


 結果は完全勝利と言えるほどの一方的なものであったが、当時の浅井は六角配下の従属勢力であり、国人の小競り合いにしては明らかに過剰な対応だと指摘する学者もいる。


 信長に箔をつけさせようとした信秀の親心がそこに見られるとも言われるが、東が落ち着いた織田が西美濃の統治を本格的に始めたのだというのが定説になる。


 なお、この頃には織田家では女性が武士と対等に活躍を始めていたようで、久遠家以外でも信秀の正室の土田御前が領地の勘定方の仕事をしていたという記録などもある。


 女性警備兵の創設もこの頃であり、織田家では当時の世界でもっとも女性の活躍が認められていたということになる。


 そして、この戦では滝川資清が浅井久政を捕らえる大手柄を挙げている。甲賀出身の元土豪であるが、忠義の八郎と呼ばれていて、その誠実な人柄から尾張でも親しまれていた資清の手柄を皆が喜んだとの記録もある。


 六角家では当時管領代として全盛期だった定頼が、資清の活躍に六角家で活躍してくれればと残念に思ったという逸話もあるほどだった。


 ちなみに資清が私的に書き残した『資清日記』には、一馬やエルが資清のために手柄を挙げやすい場所の捜索を命じたのだと書かれているが、一馬たちの側にそのような記録・記載はなく真偽は不明である。



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