第639話・総崩れの浅井軍

Side:浅井久政


「なにをしておる! 攻めよ! 横撃の兵を叩くのだ!!」


 怒鳴り散らす古参の老臣の声が周囲に響く。戦は順調だった。ついさっきまでは。


 きっかけは側面から横撃を受けたことだ。無論、警戒はしておった。されど雨の中、察知することが叶わず、突如現れた横撃の兵は我らを分断するように突撃してきた。


「ずいぶんと武士が多い横撃の兵ですな」


「いかなる意味だ?」


 小癪にも我らを討ち取ることではなく混乱させることを狙った横撃だ。思わず軍配を叩き折りたくなるのを押さえつつ見守っておると、もうよいと言うのに付いてきた関家の縁者の者が、感心したように呟いた。


「そのままでございますよ。まるで一軍の将でも務めるような猛者ばかりが横撃をしておる様子。雑兵などではない分だけ厄介でございましょう」


 確かに横撃の兵の武具を見ると明らかに武士が多い。


「それにあの中央におる馬に乗った者は、恐らく久遠家の奥方ですな。横撃の大将かもしれませぬ」


「女如きが戦場になにをしに来たのだ?」


「久遠家の女の武芸は、並みの武将以上でございますぞ。かの有名な塚原卜伝が、久遠家の今巴の方に自ら負けを認めて師事したこと、伊勢でも有名でございます。北畠家と織田家が誼を深めたのも、元はと言えば北畠家の若君が塚原卜伝に師事しておったことが理由」


 周囲がざわめいたのがわかる。噂は聞いておった。塚原卜伝が女に負けたと。年を取って遅れを取ったのを隠すために誇張して吹聴しておると、家臣が笑っておったのを覚えておる。


「女如き、わしが討ち取ってやるわ!」


 先の老臣が面白くないとばかりに食って掛かる。確かに女如きに負けるとはわしも思わん。だが周囲の者たちは武芸に秀でた者も多かろう。討ち取れるとは思えんな。


「……退くぞ」


 駄目だな。数が少ないにもかかわらず横撃を受けると対抗のしようがない。引き際だ。


「殿!!」


「まだやれまする!!」


 家臣たちの反応は分かれた。納得する者もおるが、反発する者もおる。愚か者を前線に出したにもかかわらずこの有様だ。


 これでは勝てる戦も勝てぬな。わしには将としての力量が足りぬということか。


「これ以上続けてなんになる? 六角も朝倉も攻めて来ぬとは限らぬのだぞ」


 一戦交えることはできたのだ。これ以上続けても痛手が増えるばかり。このあと近江に戻っても戦があるかもしれぬというのに。


「前線が騒がしいですな」


 家臣たちを黙らせるのに費やしたのは僅かな時だった。しかし織田はその時で更に動いておった。


 前線の陣から敵の主力が出て来てしまったのだ。


「ちっ」


 これでは退くに引けん。ここで退けば総崩れになる。いかがする?


「あれが今巴の方ですぞ。見事な用兵ですな」


 ああ、陣から出て来た中におる真っ赤な鎧を身に纏った武将。あれが女だと言うのか? 騒がしい戦場でわしの周りだけが静まり返った。


「あの役立たずの愚か者どもめが! 退くぞ!!」


 総崩れの心配は不要だった。退かずともあっという間に前線が総崩れになったのだ。


 口ばかりが達者な愚か者どもめ。己の武勇で織田など蹴散らしてやると豪語しておった者が、真っ先に蹴散らされておる。


 しかし見事だ。左右からの横撃と本隊の動きもすべてが。あれでは勝てるはずもない。


 退き鐘を鳴らすと、それまでなんとか戦っておった味方が一斉に逃げ出す。最早総崩れとしか思えぬが、いかにしようもない。


 前線とわしのおる後方では分断されて伝令も出せぬのだからな。


「殿! 殿しんがりは某が!!」


殿しんがりはあの愚か者どもでよい! 退くぞ!」


 わしの命に反発する者たちだが、前線に送った愚か者よりはマシだ。ここで死なせるわけにはいかぬ。あの愚か者たちを囮にして撤退するぞ。


 くっ、戻ったら愚か者どもの一族郎党をまとめて処刑してやるわ!




Side:浅井家家臣


「はあ……、はあ……、はあ……」


 腰に下げておった竹筒に手を伸ばすが、すでに空だった。強烈な喉の渇きに地面に溜まる泥水でも飲みたいほどだ。


 周りを見ると、どやつもこやつも息が絶え絶えで、誰も言葉も発せぬ。降り続く雨が体を冷やしており、まるで冬のような寒さにも感じる。


 何故、何故このようなことになったのだ?


「大丈夫か?」


「ああ、死にはせぬよ」


 手傷を負った者も多い。本来なら首を取られてもおかしくない者もおるが、織田は首以前に止めを刺すこともせずに戦っておった。生きてはおるが、つわものとしては二度と役に立たん。


 憎らしいが強かった。正面を強固な陣地で守り、左右から横撃の兵が襲ってきてはひとたまりもない。


 殿はご無事であろうか。味方が分断されて散り散りとなってしまい、共におるのは三十人ほどの武士と兵たちのみだ。


 傷付いた者に手を貸して皆で近江へと急ぐ。織田が北近江を切り取るべく攻めて来るやもしれぬし、それがなくても落ち武者狩りに殺されてしまうかもしれん。武士として戦で死するなら本望だが、落ち武者狩りで首を取られては死んでも死に切れん。


「浅井はいかがなるのだ?」


「さて、いかがなるやら。この戦、六角も朝倉も止めよと言うておったのを、殿が武士の面目が立たぬと強行したのだ。織田が攻めて来るのか、六角か朝倉が攻めて来るのか」


 これほどの大敗は初めてだ。この後のことを懸念する者が多いが、いかにせよこのままでは済むまい。誰が北近江を制するか知らぬが、我らには辛いことになろう。




Side:滝川資清


 浅井勢は敗退した。戦としては完勝と言えよう。エル様は少し渋い表情をされておるやもしれんがな。


 織田は近頃の戦で勝ち過ぎだと懸念されておるのだ。勝つのはいいが、驕る者、侮る者が増えては困る。金色砲にしてもそうだ。まるでそれさえあれば勝てると思う愚か者も近頃はおると聞く。


 殿とお方様たちはすでに天下を見据えておられる。周囲に侮られる勝ち方は困るが、勝ち過ぎて味方の気が緩むのも懸念されておったのだ。一見すると完勝だが、その先には次の戦に向けた課題がある。わしもこの歳になるまで知ることがなかったことだがな。


「八郎様、浅井方の兵がおるようでございます」


「何人だ?」


 わしは今、敗残兵の掃討に出ておる。戦自体は久遠家の陣を任せられておった故、直接戦えなかったのだが、浅井勢は大敗したため散り散りに逃げてしまい、兵を率いて掃討に当たっておるのだ。


「十人もおりませぬ。ただ……、身分が高い者もおるのやもしれませぬ」


「周囲を囲め。わしは降伏を促す」


 相手が誰であれ、見つけたら降伏を促すことになっておる。殿やお方様たちと一緒に随分と地図を見ておったこともあり、地理に暗い場所とはいえ困りはしない。


 北国街道に繋がる脇道から更に外れた獣道でわしは敵兵を探しておったが、なにやら名のある武士を見つけてしまったらしいな。


 周囲に誰かおれば代わってもよいのだが、あいにくと久遠家の者と忍び衆しかおらん。久遠家があまり手柄を挙げると他家から妬まれるのだがな。


「何奴だ?」


 仕方なく味方で包囲しつつ、降伏勧告をするために敵兵の前に出ていく。


 敵はまだ戦う気概があるようだが、それでも多勢に無勢だ。中でも一番身分が高いと思われる者が、死の覚悟を以ってわしの名を問うてきた。


「某は久遠家家臣、滝川八郎資清。降伏していただきたい」


「忠義の八郎か。そなたならばよかろう。わしは浅井下野守久政である。この首と引き換えに他の者の助命を頼む」


 決して武芸に秀でておらぬわしを案じて周囲を固めてくれる兵たちも、目の前の男が発した言葉に驚き息を呑んだ。


 安易に名乗ったところを見ると影武者か? まさか本物ではあるまいな?


「よかろう。そなたが真に浅井下野守殿であり、降伏するのならば、他の者の助命はわしも口添え致す。ただし勝手な自害などは認めん」


 いずれでも構わぬか。降伏する者を受け入れぬという選択はない。


 すぐに浅井久政の顔を知る者を呼びに行かせる。確か近くにおった伊賀者が知っておるはずだ。




 




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る