第632話・待つ者
Side:久遠一馬
関ケ原に到着して数日、朝倉家の使者が帰った。話し合いは、まあ上手くいったほうだろう。
結局は朝倉家で関ケ原まで護衛込みで取りにくることになった。朝倉家としては軍を出して浅井を一気に屈服させたいという思惑もあったらしいが、織田は近江に介入する余裕はない。
そのあたりは多少訝しげにもしていたが、広がった領地の運営で大変だと言えば嘘だろうとまでは言われなかった。
この時代の感覚だと国人や土豪が従えば、まずそれでよしとするからね。ただ領民を食わせることが織田の統治であり、それには苦労が多いと教えると景紀さんは理解してくれたらしい。
「しかし、上手くやっておるな」
朝倉家が帰ったあとは、信長さんとオレたちで最前線の今須宿を振り出しに関ケ原各地の賦役の現場に足を運び、精力的に激励をして歩いている。現場を知り、激励するだけで人の印象とは違うものだ。
元の世界ではパフォーマンスだと批判をされることもあるが、こうして実際にやってみると効果は確かなんだ。費用も大して掛からないしね。
「幾つか工期の遅れがありますが、急がせてはおりません。浅井家相手では問題ないでしょう」
案内役はウルザだ。実際に賦役をしていると予期せぬトラブルもあるが、上手く対処しているみたいだ。
賦役の労働も基本的には一日八時間を目途にさせている。これは尾張の賦役でも同じことをしているのだが、実のところ朝から晩まで働かせるより効率がいい。まあ現場によっては残業をしているところもあるが。
どちらかと言えば自発的に残業をする人が多いことにはびっくりした。まだ働けるぞと頑張ろうとするんだからね。社畜精神がこの時代からあるのかと疑いたくなる。
「構わん。このままでいい」
当初はもっと働かせればいいと言っていた信長さんも、今ではウチのやり方でいいと理解してくれている。無理をさせることなく効率的に開発をする、織田ではそんな方向に進みつつある。
連れてきた一万の兵も野戦陣地の構築に入っている。主に北国街道から関ケ原の北西にある北国脇往還からの道で浅井は攻めてくるだろうから、そちらに簡易な野戦陣地を造っているんだ。
「諸将からはこれほどの兵ならば、攻めてはいかがか、という意見もありますな」
「浅井から奪うくらいなら賦役のほうが利になる。仮に浅井が来なくてもいいのだ。こちらは一万の兵で賦役をしておれば問題ない」
完全に守りに入っている織田だが、そこに異なる意見があると語ったのは、この日一緒に視察している氏家さんだった。守るなんて甘い。浅井を一気に攻めてしまえと語る人は武士のみならず領民にもいる。
どちらかと言えば、そういう意見が多いかもしれない。一万の兵と武具と兵糧もたくさんあるからね。浅井如き一捻りだとみんな気が大きくなっているかなぁ。
信長さんはそんな氏家さんの意見を、考える間もなく却下した。氏家さんも自身の望みというよりは信長さんの考えを確認したかったのだろう。重臣という立場上、氏家さんは下に説明しないといけないからね。多分美濃衆は特に攻めてしまえという意見が多いんだろう。
「その気になれば取れますからね。北近江の一郡くらいなら。でも要りませんね。面倒事が多い割に実入りが増えるわけでもないですし」
小谷城くらいなら取れる可能性はある。朝倉と六角を納得さえさせたら。とはいえ朝倉と六角と運命共同体にされても困るんだよね。
まだ尾張衆のほうが理解しているだろう。その気になれば取れる領地なんて、三河にも美濃にもたくさんある。新しい領地よりも既存の領地の改革に熱心なのは、よほど世間に疎い人以外は知っているはずだ。
「浅井を利用して西美濃を固めるというわけですな」
ついぼやくように口を滑らせると、氏家さんが多少困ったように苦笑いを浮かべた。誰もが欲しがる領地。それも近江の琵琶湖沿いの領地だ。喉から手が出るほどみんなが欲しがるものを、厄介物のように語るのは言い過ぎだったね。
「ええ、関ケ原で守り、西美濃を尾張と一体として繁栄させる。それが優先です」
まあそれでも苦笑いで済んでいるのは、氏家さんが織田家の方針を理解しているからだろう。西美濃は尾張からの資金と賦役で一気に暮らしが変わりつつあるからね。
「久遠殿の考え。恐ろしいですな。その恩恵を受けられぬ者が、いかに苦々しく思っておることか。また民にとっては、何故織田と己の土地は違うのだと不満を抱えましょう」
「おっしゃる通りですよ。だから近江は取れないんです」
ただ氏家さんは織田の方針を理解すればこそ、敵がいつどこから来てもおかしくないと気付いている。苦言というわけではないが、どうもウチは甘いと思われているのか、心配はされている感じか。
「やはりそうでございましたか。強く銭があるのも難しゅうございますな」
「ここに城が出来れば、一気に西美濃は安定します。すべてはそれからですよ」
遠く西の空を見上げて、信長さんはなにかを考え込んでいた。
すべてはここからだ。史実の信長さんの天下取りが美濃を得てから本格的に始まったように、織田が天下に挑むのはこの浅井との戦からかもしれない。
氏家さんたち美濃衆を見ても、そんな信長さんに不満があるようには見えない。
このまま上手くいくように頑張ろう。油断大敵。浅井久政は決して油断出来る相手ではない。史実の桶狭間の義元のようなことはごめんだ。
Side:氏家直元
若い。元服から数年。当然と言えば当然だ。国人衆のそこかしこからは三郎様で大丈夫かという声すらある。大うつけという噂は今もあるからな。
久遠殿でさえ、銭で地位を買ったなどと陰口を叩く者はおるのだ。よく知らぬとも言えるし、もともと美濃と尾張は争っておったのだ。心情只ならず面白くない者がおって当然だ。
ただ三郎様と久遠殿を知る者で侮る者はほとんどおらん。織田がここまで大きくなったのは久遠殿の功と言っても差し支えないだろう。そんな久遠殿の才を見抜き召し抱えたのが三郎様だ。
口数が多くなく、今日のように着流しで出歩く三郎様に眉をひそめる者もおるが、尾張では困っておる者がおれば自ら助けてくださることで、領民が気さくに声を掛けるのだとか。
ここ数日お側で仕えてわかったことは、見た目以上に美濃衆に気を使っておることだ。浅井が攻めてくることを想定して布陣をすでに考えておるが、こちらの事情や家柄を考慮しておる様子。
わしと不破殿と稲葉殿にも昨日、布陣について意見を求められた。若いのだ。しかも大将としては初めてだと聞く。もっと気負い、自らの武功を求めてもよいものを。
見た目と違い謙虚と言えば無礼にあたるか? もっとも噂の大智の方殿も噂以上だ。若い娘にしか見えん上にあまり口出しせぬのに、的確に三郎様を補佐しておる。隙がまったくない。
浅井はいかがするつもりなのだ? 織田は六角のように上辺の臣従をすれば許すほど甘くはないぞ。放置されて名誉も誇りも失い、家を保つことすら危ういというのに。
安藤も
関ケ原の近くでは竹中も動きがおかしい。今更日和見をしていいことなどないというのに。
まあ、わしが困るわけではない。わしは若い三郎様が困らぬように美濃衆をまとめるのが役割。武功にはならぬかもしれぬが、織田ならば評価されよう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます