第616話・女たちの仕事

Side:土田御前


 障子を開けると心地よい風が入ってきます。食卓の上にある書状や書類が揺れるのを見ながら筆を休めて、運ばれてきた茶を飲んで一息吐きます。


「恐ろしいほどの銭が動くの」


 近頃、わらわは殿の側室たちと共に、織田家の銭や税の動きを確認しております。数年前なら考えられぬほど銭が動く織田家においては、これは重要な役目。


 正直、関ケ原に送る兵糧だけでも莫大な銭がかかり、よいのかと問いたくなるほどでございます。


「はい。それ故に二重三重に確認が必要です。人は間違うものでございます。また隙があれば要らぬ欲を出す者もおりますので……」


 今日は久遠家のエル殿が手伝いに来ておるので疑問をひとつひとつ問うてみますが、相変わらず聡明で堅実。エル殿ひとりで一国を差配出来るのではないでしょうか。


 もともとわらわにこの役目をやってみてはと進言したのは、エル殿になります。清洲陥落後に大和守家の旧領を押さえる際にエル殿たち久遠家の女が活躍したことにより、殿が女衆を文官として使うことを考えた結果なのでございますが。


「銭の使い方はそなたたちに勝る者はそうおるまい。織田家中ですら、何故貯めぬと考えておるからの」


 諸国から集まる銭と様々な産物に米などで、尾張は未だかつてないほど活気があります。しかも国人や土豪に寺社を完全に押さえておるおかげで、莫大な利が織田家に入る。


 城の文官ですら少しは貯めておけばどうかと口にするが、殿は久遠家の献策通りに次々と使ってしまう。


 それを危惧する者もおりますが、その銭が更に織田を強くして儲けになって戻ってくるのだから、この流れは止められないでしょう。


「いえ、寺社などは決して油断できません。尾張を安定させるためには今が肝心でございます」


 久遠家は寺社であっても遠慮しない。殿ですら寺社に気を使うところを、久遠家は武士と同じように従えて織田の決まりを守らせようとする。恐ろしいと思うと同時に頼もしくあります。


 そもそも他家に娘を出して同盟をすることに最初に疑問を呈したのは、一馬殿になります。それは本当に意味があるのかと。


 実際、久遠家の力は恐ろしいほど。近隣の領では織田との暮らしの格差と食えるという事実に、織田は一気にここまで大きくなりました。


 一馬殿はいつ裏切るかわからず臣従する気もない他家に出すよりは、家中に出してはどうかと進言したこと。驚きと共に感謝したのが女たちの本音でしょう。


 他家に嫁に出すという、当然のことをしなくても生きてゆけるようにしてくれた。それ故にわらわもまた久遠家を信頼しているのでございます。


「寺社を治めねば先はないか」


「はい。領内のことはすべて織田家が治めねばなりません。そこに例外があってはいけません。必ずや後顧の憂いになります」


 エル殿は穏やかで市がよく懐いておるほどでございますが、政に関しては妥協を許さぬ強さがあります。


 寺社が武力を持つのはおかしい。明や遥か天竺すら知る久遠家が、織田家にもたらした考えになります。


 すべては織田の下で統一され、個々の勢力が武力で争うのを禁止する。壮大な夢でしょう。久遠家がいなくば。


「寺社にもそれを支持する者がおるのが救いじゃの」


「すべては大殿の人徳のおかげでございましょう」


 かつては強欲で殿ですら手を出せなかった寺社が変わりつつある。人を殺し、奪い合い、争わずとも生きてゆけるのなら、多少の我慢をしてもそれを望む者が相応にいる。


 事実、久遠家は困窮している寺社を進んで支援していて、むしろ力のない者たちの支持があります。並みの武士ならばそれを恐れるはずが、殿はむしろ喜んでおります。


 織田家と久遠家の関係は当分安泰でしょう。


 懸念があるとすれば一馬殿に子が出来ぬことでしょうか。こればかりは祈ることしか出来ません。


 一度、祈祷でも頼んでみるべきかもしれませんね。




Side:久遠一馬


「みんな必死だね」


 今度は信濃の小笠原長時から斯波家に支援要請の使者が来たらしい。甲斐の武田が信濃で好き勝手しているので、助けてほしいという結構シンプルなものだ。


 本城であった信濃林城を武田に落とされてしまい、体裁を整える余裕もないらしい。


「村上は武田に勝ちましたが、かといって武田を信濃から追い落とす力も支持もありませぬ。あとは越後の長尾か当家を頼るしかないのが現状でございましょう」


 少し前には以前の信濃望月家の当主が同じように使者を出してきたが、今度は小笠原か。望月さんが信濃の情勢を説明してくれるが、信濃って本当にまとまりがない。


 村上に人望がないだけかもしれないが。歴史を見ると確か小笠原長時も村上と争っていたはず。敵も味方もごちゃごちゃになって戦ばっかりだ。まあ信濃に限ったことではないが。


 しかし信濃って統一するような大きな勢力がいないね。武田は砥石崩れであれだけ敗北して今川と敵対しても領地を維持している。信玄の実力もあるんだろうが。


「これって助けても、元の領地をあげないと敵対するんだろうね」


「うふふ、それはそうよ。領地を取り戻したいだけだもの」


 仮に織田が信濃に進出しても、気に入らないと平気で敵対するんだろうな。メルティに当然だと笑われちゃった。


 いい加減、この領地制をなんとかしないとろくなことにならないね。


 ああ、メルティはお市ちゃんとお絵描きをしている。オレはそれを眺めていたんだが、望月さんが小笠原長時のことを報告しに来たんだ。エルは資清さんをお供にして清洲城に行っている。


 土田御前の手伝いにね。いろいろ大変みたいだから、定期的に手伝いに行っているんだ。


「でもこれ面白いわ。東美濃の遠山家にも影響があるもの。遠山七頭も揺れているものね」


「東美濃も信濃もあんまり旨味はないんだよね」


 メルティが意味深な笑みを浮かべると信濃と東美濃のことを言及した。今川と武田の対立が巡り巡って信濃や東美濃にまで影響しているんだ。


 特に武田と対立している南信濃あたりは織田に期待しているらしい。小笠原一族の領地もまだあるし、木曽家とかもまだ武田に臣従してないんだよね。


 織田に期待する理由は単純なものだ。武田よりはマシだろうという世評と長年敵対してきた甲斐と違い、尾張の織田は因縁がないからね。


 あと東美濃も様々だ。織田の支援がないのは、遠山家が臣従しないからだと考える者もいる。信濃からは好機だから織田の出陣を! なんて景気のいい声が上がるが、途中の東美濃がはっきりしないことで不満を持たれている。


 とはいえ東美濃と信濃はあまり旨味がない。それに北信濃で謙信、この時代だと景虎か。あの人と戦うのは避けたいからな。遠山家の態度と浅井の動きは断るいい名目だ。


「はい! かずまだよ!」


「姫様、よく出来ていますね」


 現時点で信濃介入は悪手だ。それは信秀さんもそう考えている。戦線をむやみに広げてもいいことないからね。


 そんな話をしていると、お市ちゃんの絵が完成したらしい。ウチと学校で使っている、えんぴつと絵具で描いたオレとロボとブランカの絵だ。


 子供らしい絵だけど、見ていても楽しくなるような絵になる。


 学校でも絵の授業なんかがある。この時代だと絵の具も安くないんだけどね。美術や音楽は大人とか隠居した人もいて、結構人気だ。


 子供たちの変化と成長は本当に早い。お市ちゃんが大きくなる前に織田家をどこまで安定させられるかね。


 オレも頑張らないと。みんな必死なんだからさ。



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