第613話・甲斐より来たる者

Side:久遠一馬


 桜が散ると青々とした新緑が見られるようになる。尾張では農繁期に入っていた。


「武田の西保三郎にございます」


 雪解けを待って尾張にやってきたのは武田信玄の息子だった。真田幸綱さんを筆頭に家臣やお供の人を五十人ほど連れてきている。


「よう参った。よう学び立派な武士となるがいい」


 甲斐源氏の嫡流である武田家の息子だけに、義統さんとの謁見がすぐに行われた。義統さんはまだ幼い子供を相手になるべく友好的に応対していると思う。西保三郎君は緊張しているみたいだけどね。


 屋敷は清洲に用意した。現状で学校には寮があり、武士も庶民も遠方の子たちは寮に入っているが、さすがに武田家の子をそこに入れるわけにもいかない。


 信秀さんや義統さんの子たちと同じ扱いにするということになっている。生活費とかも武田家が出すしね。お客さまとはちょっと違う、私費留学生というとこかな。


 もっとも武田家も体裁を維持するには大変かもしれないが。尾張にいれば尾張での付き合いもある。武田家が尾張の国人なんかと同レベルでいるわけにはいかない。


 生活水準も人付き合いもワンランク上でなければならないだろう。でも斯波家や織田家に合わせると苦しいだろうな。


 ウチの影響もあって斯波家と織田家もいい暮らししているから。半ばこっちの都合で斯波家と織田家にはそれなりの暮らしをしてもらっている。


 ウチが一番いい暮らしにならないようにしているんだよね。


 まあどうするか武田家の腕の見せ所だ。こっちはそこまで手を貸すつもりはいまのところはない。


「武田も上手くいっておらぬらしいな」


 西保三郎君たちが謁見の間から下がると、義統さんが同席したオレとエルを見て、ため息交じりに武田のことを口にした。


 諸国から集まる情報は当然義統さんにも報告している。大和守家の時と情報量のあまりの違いに驚いていたほどだ。


「現状では戦の勝敗がはっきりするまで、こちらの勢力圏の東部情勢が大きく動くことはないと思われます。とはいえ今川が信濃に謀をしているのは事実のようでございますが」


 エルが義統さんの問いかけに少し厳しい表情で答えた。戦は始まってないが、すでに互いの工作はどんどん進んでいる。


 揺れているのは信濃だ。もっとも抵抗しそうなところは武田が滅ぼしているからすぐには動かないと思う。ただ臣従した国人なんかは情勢次第ではどうなるか分からない。長年争っていた隣国がそう簡単に従うはずもない。


 現時点で武田は北条と同盟している。こちらも不可侵の状態は維持されているが、それ以上の協力は互いに求めていない。武田からすると北条の支援は欲しいのだろうが、それを頼むと見返りが必要になる上、関東を巻き込んだ騒動に発展する。


 今川が反北条の関東諸将と組む可能性もゼロではないからね。もっとも北条を巻き込むこと自体は織田との停戦協定違反だ。


 そうそう、今川との停戦協定はこの春になりようやくまとまった。信康さんが太原雪斎と誓紙を交わして一年の停戦が成立した。


 吉良家の扱いとかで揉めたせいで遅くなったね。言いだしっぺはオレだけど。厄介払いには失敗はしたが無駄ではなかった。吉良家に自分の置かれている立場を自覚させることは出来たからね。


 武田は織田と今川の協定内容までは知らないだろう。もっとも北条には『北条を巻き込んだ時点で織田と今川の停戦協定違反』となることは伝えた。互いにこの件では情報の交換と協力することを約束しているんだよね。


 武田も北条を巻き込めば、関東から尾張まで巻き込む可能性を慎重に考慮して動いている。


 一般論で言えば今川と武田では、まだ今川が信用される。実は武田の条約破り、最近では結構有名なんだよね。主にウチで積極的に広めた影響もあって。


 悪いけど史実や現状の武田を見て信用しようなんて思うのは無理だ。強ければ条約破りも謀として評価される時代だが、信用はこの時代でも大切だ。


 武田の条約破りも、意外と正確に知られていないのがこの時代の現状だったんだよね。結局甲斐と近隣の小競り合いでのことだろうと、誰も興味を持たないのが原因なんだと思うが。


 将来、武田が大きくなった時のために、忍び衆や商人の販路上で武田の実情を知らせていたら、思った以上に噂が広がった。


「一度の戦で家が傾くか。怖いのう。今川は甲斐を全てたいらげる気なのであろう?」


 エルの返答に義統さんは地図を用意させると覗き込みつつ、武田と今川の現状を考え込んでいた。


「そのようでございますな。今川はまだ自力で大きくなることを諦めておりませぬ。守護様や某に頭を下げるのも遠江を失うのも嫌なのでございましょう」


 山に囲まれて耕作地が少ない上に貧しく、風土病のある甲斐を本気で武田から切り取るつもりなのは今川だけだろう。


 義統さんは半ば呆れているが、信秀さんは今川が未だに斯波家や織田に屈するのに抵抗している証だと見ている。


「武田はこれで滅んでも血は残せるということか。その覚悟は見事じゃの」


 信玄は自分の子を外に出した。それは人質というよりも、万が一を考えて血を分けたというのが本音なのかもしれない。


 義統さんがそう言えば、それが真実に思える。


「しかし、大きくなったの。地図を見ると驚くわ。いささか早すぎるのが怖いほどよ」


 現時点で武田と今川の件は不干渉だ。停戦協定もある。武田に食糧を売るくらいならいいが、武具なんかは売れない。


 そんな状況に一区切りをつけた義統さんは、地図の織田領の広さに思わず感慨深げに呟いていた。


「そうですね。これ以上は面倒見切れません」


「ふふふ、一馬。そなたにも無理なことがあるのだな。まるで打ち出の小槌でも持っておりそうなものを」


 怖いと口にした義統さんに、つい同意すると義統さんや信秀さんに笑われた。でも打ち出の小槌とは面白い例えだ。義統さんいい勘しているね。打ち出の要塞なんだけど。当たっているよ。


「人が人を治めるのは難しいと実感しておりますよ。今須宿では領民が逃げずに戦に加わったとのことです。この件はいい結果になりましたが、放置すると一向衆のように暴走しかねません。稲葉殿が上手く差配したので、今回は問題がありませんでしたが」


「武田や今川や浅井が聞いたら贅沢な悩みだと激怒しそうじゃな。とはいえ深刻じゃの」


 もっとも織田も決して順風満帆ではない。どんな統治も問題と改善点は尽きないし、選択を誤ると史実よりも泥沼になるだろう。


「そういえば、公方が上洛の際にはそなたにも会いたいと言うてきたぞ」


「はい? 私は留守番のつもりだったんですけど……」


「海の向こうのことを知りたいようじゃな。それと塚原卜伝からも話を聞いておるようじゃな」


 やることは山ほどあるなと少し思案していると、義統さんがとんでもないことを口にした。剣豪将軍となんて会ったら面倒なことになるんでは?


「そう案ずるな。わしもそなたを守る。最悪は足利家と手切れになっても必ず守ってやるわ」


 困ったというか嫌そうなのが顔に出ていたらしい。


 必ず守るか。その言葉がいかにありがたく、そして義統さんにとっても重大な決意の籠った言葉かはオレにもわかる。


 今の義統さんには斯波家という認識よりは、尾張という新しい国という認識のほうが大きいのかもしれない。


「我が手で足利の世を終わらせるのも一興じゃろうて。後の世で謀叛人と言われるか、愚か者と言われるかわからぬがな。そなたや弾正忠と一緒ならばよかろう」


 覚悟。その一言がいかに難しいか、オレも理解はしている。とはいえかつては三管領とまで言われた斯波家の当主が足利の世を終わらせると明言したことには驚きを隠せない。


「守護様、少しお気が早うございますな。すべては公方様次第でしょう」


「そうであったな。弾正忠。すまぬ」


 奪われるくらいなら戦う。まさに義統さんも武士なんだ。


 もっとも義統さんも最初から足利家と敵対しようとは考えてないみたいだけどね。


 とはいえ、歴史に影響しそうなことだね。




◆◆


 『織田統一記』には天文二十年の春、武田家より武田信之、通称西保三郎が学校にて学ぶために、尾張にやってきたことが書かれている。


 この件に関して『織田統一記』には詳しい背景は書かれていない。


 ただ関連する資料から、同時期に武田家と今川家が対立していたことで、武田が西の織田との関係を構築しようとしていたことは確かで、その一環と思われる。


 なお、この時期、織田家では斯波義統と共に織田信秀の新たな官位受領のために上洛を考えている時期でもあり、織田家や斯波家には上洛時に会いたいという話が幾つか舞い込んでいたともある。


 中でも信秀と久遠一馬に会いたいという話が多かったようで、一馬自身は上洛に乗り気ではなく留守番をするつもりだったようで困ったという逸話がある。


 ただ『久遠家記』には、この時に斯波義統が必ず一馬と久遠家を守ると明言したとも記載があり、当時の久遠家と斯波家の関係がよくわかる出来事でもある。


 斯波義統は『足利がなくても日ノ本は困らぬが、久遠がなくば日ノ本に先はない』とまで口にしたとも伝わり、その並々ならぬ信頼があったことを読み解くことが出来る。




◆◆

武田西保三郎。武田晴信の三男。

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