第598話・甲斐の動き

Side:今川義元


「晴信め。大胆な手を打ったものじゃ」


 甲斐の武田晴信が尾張に三男を送るらしいわ。名目は学問の修養のためとあるが、狙いは織田との誼を深めて味方にすることであろう。斯波と因縁がある今川家では出来ぬことよ。


「困りましたな。長々と戦をしては織田が武田に傾くやもしれませぬ」


 雪斎もこの一手には渋い顔をしておるわ。名門甲斐源氏である武田家の、しかも正室の子を外に出すとはの。確かに織田には日ノ本にはない知恵や物がある。それを得たいのは何処も同じ。


 されど織田とて他国にそのようなことを教えるはずもないわ。それでも晴信の実子が尾張に行くという意味は計り知れぬものがある。


「人質になってもよいというのか?」


「左様でございましょう。武田の風評では織田との同盟は難しゅうございます。ならば勉学との理由でひとえに人を送り、誼を深める。もしかすると今川領から甲斐に入っておる、塩などを荷留することも懸念したのかもしれませぬ」


「ここで負けると後がないのは同じか」


 偏に実子を送るなど、屈辱であろう。相手に元三管領の斯波がおるとはいえ、武田もまた後がないと理解しておるか。


 織田は人質を取らぬと言うておる。晴信の子は客人として丁重に扱われるであろうの。それで家中の不満が抑えられるのか否か、わしにはわからぬがな。


「この隙に織田は北近江と戦をすると?」


「はっ、まさしくは北近江との境にある関ケ原に城を築いておりまする」


「あそこに堅固な城が出来れば美濃は安泰であろうな」


 いまひとつ事情がわからぬが、信秀め。北近江の浅井を挑発でもしたか? まさか本当に女のひとりやふたりのために戦をするわけではあるまい。


 三河にて争いが収まり、停戦の話を進めておることを利用したか。相変わらず油断も隙もないな。


「浅井が織田を脅かしてくれると面白いのじゃが」


「難しいかと思われまする。そもそも美濃は斎藤利政が健在でございます。織田が出るまでもなく浅井では話になりませぬ。六角か朝倉が本気で動けばあるいは……」


「それはあるまい。それをやれば本願寺や三好も動く。大乱になろう。誰も望むまい」


 今川家としては大乱でも面白いのじゃが。それを狙えば織田と北条がまさに同盟を結んでしまうかもしれぬ。伊勢の北畠も織田に付くかもしれんな。斎藤は織田が危機となれば寝返るのかもしれぬが、そのような状況になる前に織田が六角か朝倉と和睦を結べば終わりじゃ。


「もしかすると、大乱を望むは織田かもしれませぬ」


「久遠一馬と大智か?」


「はっ、拙僧では勝てぬ相手。本当に申し訳ございませぬ」


「よい。それが早くにわかったことが、そなたの功なのじゃ」


 大乱を治めるには人並みならぬ才覚と運が必要であろう。信秀はその双方とも持っておるわ。現状で織田が甲斐攻めを邪魔せぬならば、それでよい。


 自らの力で天下を治める。やってみたかったが、三河半国しかとれなんだのが、わしの限界なのであろう。


 そもそも雪斎がおらねば、今川家は安易に織田と戦をして苦境に立たされておったのやもしれん。口惜しいがこれが現実というものなのであろうな。


「相手は武田晴信じゃ。期待しておるぞ」


「御意」


 甲斐の冬は寒かろうな。致し方あるまい。今川家をわしの代で途絶えさせるわけにはいかぬのじゃ。なにがあろうとな。




Side:久遠一馬


 甲斐の武田からは、信玄の三男である史実の武田信之たけだのぶゆきが尾張に来るらしい。通称で西保三郎と呼ばれている子だ。数えで九歳になる。知らんなと思ったら、エルいわく二年後の天文二十二年に史実では亡くなっている子らしい。


 母は三条の方。公家の三条家の娘だ。粗末に扱えない子供だね。さすがは信玄だ。人質になることも考慮して、中途半端な養子とかではなく実子を出してくるなんて。


 あと真田幸綱さんも西保三郎君のお供として同行するらしい。彼がこの件の言いだしっぺだしね。当然と言えば当然か。


 エルいわく武田家中ではこの件でそれなりに揉めたらしい。家臣から人質をとっておきながら、自分は他国に人質を出すようなものだからね。


 織田が武田を警戒する以上に武田が織田を警戒している。まあ当然のことなんだろう。今川と争っている隙に信濃を攻められると武田は終わる。


 武田から見ると、尾張、美濃、西三河と領有しているように見えるだろう。実際旧来の統治でいいなら、そこらはとっくに織田で統一出来るはずだ。


「相変わらず人が考えぬことを考えるな」


 この日オレとエルは、信秀さんと信長さんにひとつの提案をしている。信長さんは感心半分呆れ半分といったところか。


「臣従もしておらぬ者らにわざわざ手の内を見せるとはな。つねならばせぬことだ」


 信秀さんは興味深げにオレとエルの説明を聞いて考え込んでいる。今回提案したのは、松平家、吉良家、遠山家、安藤家などを呼んで、浅井との戦を見せるというものだ。


 元の世界で観戦武官という仕組みがあったが、あれをこの時代なりに活用しようとエルが進言してきたんだ。


「六角も朝倉も浅井がいくら騒いだところで、織田が北近江に攻め込まない限り、援軍は義理程度の数以上は送らないでしょう。今ならば織田の勝ちは揺るぎません。この際に織田の戦をこちらから見せることが後のまつりごとに効くかと思います」


 六角と朝倉は、織田が北近江に大きく攻め込まない限りは動かない。さすがに北国街道沿いを占領しようとしたり、琵琶湖辺りまで攻め込んで浅井を滅ぼそうとすれば動くだろうが。


 浅井には悪いが試合どころか、襲ってくるのを取り押さえる逮捕術の演武に近い状況だ。六角と朝倉もさすがで、織田が北近江に攻め込まないようにと硬軟織り交ぜたやり取りがすでにある。


「手の内を晒すというのか」


 こっちは自信があるが、信秀さんはこの件は少し慎重らしい。信用してないんだね。独立領主たちを。


「殿、現状でも六角や朝倉、そして今川の様に他国に耳目を放つ家には知られてしまいます。独立領主たちは言い換えれば自ら調べぬような者たちが多いのです。力の差を見せつけるべきでしょう。どのみち織田の真似は叶わぬのです」


 自信ありげな微笑みを浮かべるエルがオレに続いてこの策を押すと、信秀さんの言葉が止まった。


 正直、従わないからといって滅ぼすわけにもいかないので、それなりに織田の変化と力をみせてやる必要はあるんだよね。


 安藤あたりは放っておいても物見を出して調べるだろうが、吉良家と遠山家は放っておくと我関せずと動かないからね。


「人が隠したいものをあえて見せて知らせるか。そなたたちの考えは面白い」


 逆転の発想というほどではないが、六角と朝倉は隠しきれないくらいには忍びや物見の人を出すだろう。それに浅井の人たちからも戦後に聞くはずだ。


 どうせ知られるなら、戦を最大限に利用しないとね。広報と宣伝活動は元の世界だと基本戦術なんだけど。この時代ではまだそんな概念もほとんどないからな。


「いいのではないか。親父」


「試す価値はあるか。城と野戦陣地を用いれば五分ごぶ以上の戦は出来よう」


 信長さんはあっさりと賛成したが、信秀さんは慎重ながら賛成してくれた。まあ最悪の事態として浅井、朝倉、六角の連合軍との戦も想定しているのだろう。


 エルもそれは想定しているんだけどね。現実問題としてほぼありえないんだ。六角定頼は畿内から東海の安定を重視しているし、史実では朝倉義景となる朝倉延景は文治を重んじていて織田との商いを増やしたいと考えているくらいだからね。


 朝倉は現状では織田との相性がいい。ただ、あそこは朝倉宗滴が亡くなると問題が出てくるからなぁ。


 いつ戦になるかわからないが準備はすでに始めているし、観戦武官の準備もしておく必要があるだろう。


 東美濃と北美濃はこれでだいぶ変わるはずだ。




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