第595話・浅井久政、素破を雇う

Side:とある伊賀者


「よいか、美濃の斎藤家の様子を探って参れ!」


 上忍に命じられて浅井家に来たが、雨が降っておるのに庭先で顔を上げることも許されず泥が顔に付くほど頭を下げておると、僅かばかりの悪銭を投げられて浅井久政に間者仕事を命じられた。


「……斎藤家だけでよろしいので?」


「勝手に口を開くな! 下郎が!! 黙って命に従えばいいのだ。素破の分際で!」


 理解出来ん。美濃だから斎藤家か? 不破家はすでに織田家に臣従したはずだ。美濃に手を出せば斎藤家ではなく織田家が出てくるぞ。


 そう思えばこそ、確認のために問うたが、気に入らなかったのか激怒された。時々このような者がおるが、決まって報告を気に入らぬと騒ぐ輩だ。


 上忍もこのような者など相手にせねばいいものを。織田家に恩を売る好機だと受けたのだ。まあいい。ついでに浅井家の様子を調べて織田家に売ればいいのだ。


「そっちはどうだ?」


「どうも浅井家の者は不破家が織田家に臣従したことを知らんらしい。商人は知る者もおるが、わざわざ教えるほど付き合いがある者もおらんようだ」


 小谷城を出て浅井領内を探っておった仲間と合流した。仲間に浅井久政が寄越したはした金を見せると、やはりかと言いたげな様子で呆れた。


 今時こんなはした金で動く者は伊賀にはおらん。尾張に行けば人並みの扱いと銭で雇ってくれるのだ。甲賀者がほとんど織田家か久遠家に雇われるので素破自体が不足しておるというのに、それすら知らんらしい。


 仲間が調べたところ、北近江で不破家が織田家に臣従をしたことを知っておるのは商人だ。さすがに探りは入れておらぬが、比叡山も知っておろうな。商人は浅井家に兵糧を売りつけておるくせに、なにも教えておらんとは。浅井久政は見切りを付けられておるな。人望、よしみ、義理、何もないな。


「大変だ。織田はすでに関ケ原と今須宿に城を築いておるぞ」


 浅井家の様子を一通り調べると美濃に向かうが、先行しておった仲間が血相を変えて引き返してきた。織田家はすでに動いておったようだ。


「これは……、浅井に報告など出来んぞ」


 我らもすぐにこの目で確かめんと、先を急ぐが今須宿はどうも野戦陣地のようだ。ただし関ケ原は本当に城を建てておる。しかも集められた人は一万から一万五千ほどか。浅井に報告などすれば、その場で殺されかねん。どうするか。


 それにしても南北を山に囲まれた関ケ原が、まるで町でも出来たかのような賑わいではないか。


「久遠家がおるな」


「大丈夫なのか?」


「心配いらん。無法なことをせぬ限りはなにもされん」


 山の上に城を築いておるところを見つつ誰がおるのかと探ると、顔見知りの久遠家の素破を見つけた。ちょうどいいので話の分かる誰かに会わせてほしいと頼むと、二つ返事で取次をしてくれた。


「ウルザ様がお会いになられる。くれぐれも無礼のないようにな」


 しかし誰が来ておるのかと思えば、久遠家の奥方だとは。白い円形の天幕の中に案内された我らの前におったのは、肌の焼けておる奥方と身分の高い武士が数人だった。彼の者らは織田家の家臣であろう。


「顔を伏せたままでは話も出来ません。そこの床几しょうぎに座りなさい」


 控えるように顔を伏せたが、すぐに座れと、床几が用意された。身分が違う我らにこのようなことをするのは久遠家だけだ。


 そこに座り温かい麦湯むぎゆが運ばれてくると、周りを囲まれておることも忘れて麦湯で一息つく。誰もなにも言わぬ。我らが麦湯を飲んで落ち着くまで待っておるのだ。相変わらず信じられぬことをする。


「我らは北近江の浅井久政に命じられて美濃の斎藤家を探りに参りました」


 久遠家を相手にするには素直に話すことが一番だ。嘘を嫌うからな。久遠家は。さすがに周囲を固める身分の高そうな武士は驚いておるが、ウルザ様と言われたお方は顔色ひとつ変えておらぬ。


「斎藤家ですか」


「これは我らの憶測も入っておるとお聞きください。浅井ではどうも不破家が織田家に臣従しておることすら知らぬ様子。某が斎藤家でいいのかと確認したところ、余計な口を開くなと言われました。当然ここのことも存ぜぬようでございます」


 誰も怒ることもなく、また話の腰をおることもない。久遠家での素破の扱いがいいのは伊賀では周知の事実だが、織田家の家臣がおってもこれほど違うとはな。


「また商人は知っておるようですが、浅井に教えておらぬまま一儲け企んでおるようでございます。比叡山も特に動きはなく、浅井の味方をする様子もありませぬ」


 個々に調べた北近江の国人衆の様子など、知っておることはすべて話す。ただ正直織田家が出張るほどの相手ではないと思うほどだ。


「そうですか。ご苦労様です。この後はいかがするのですか?」


「本来ならば報告に戻るべきでしょうが、関ケ原にて大掛かりに築城などしておると知らせれば、殺されてしまいまする。このまま伊賀に戻りまする」


「ここまで来て無駄足では困るでしょう。褒美を取らせます。あとで受け取りなさい」


「ありがたく、頂戴いたしまする」


 更に驚いたのはすべてを久遠家の奥方が仕切っておることか。織田家の家臣たちがそれを認めておることが信じられぬ。


「褒美だ。それとここを今夜は使っていいそうだ。休んでいくといい。飯はもう少ししたら持ってくる」


 久遠家と関わったことのない仲間が、信じられぬと言いたげな表情で呆けておった。先ほどと同じ白い布で囲った天幕のようなものをひとつ我らに貸し与えてくれたのだ。


 集めた領民から武士まで同じつくりの天幕で寝起きしておるようだが、まさか今夜の寝床まで貸してくれるとは思わなかったのだろう。


「銭と銀だ。結構な量だな」


 それと褒美は持って帰るのが重いほどの銭と銀だった。ジャラジャラと音がする銭と銀に本当に貰っていいのかと恐くなるほどだが、織田家と久遠家は程度の違いがあれどこんなもんだ。


 今回は少し多いがな。恐らくは浅井久政の様子を知らせたおかげで高くなったのだろう。


「浅井はなにをかんがえておるのだ?」


「織田と戦うつもりなどないのだ。どうせ関ケ原を抜けて美濃を適当に荒らして帰る気だったのだろう。噂では斎藤新九郎の奥方である近江の方に絶縁状を送ったと聞くしな。織田が出てくるとは考えもしておらんはずだ」


 待遇の違いもあるが、動員しておる人の数も、連中に食わせる飯でも織田家の力は桁違いだ。六角家が本気になれば戦えんこともなかろうが、浅井では格が違いすぎる。


「おい、飯だぞ」


 天幕の中で一休みしておると夕飯となる。運ばれてきたのは、飯碗にいっぱいの飯と具沢山の味噌汁に、漬物と魚の干物だ。


「食っていいのか?」


「ああ、お代わりもある。遠慮せずに頼んでいいそうだ」


 前に那古野に行った時は飯を食わせてもらって、公衆浴場という風呂屋にまで入れてもらった。ここではさすがに風呂はないのだろうが、相変わらずいい飯を食わせてくれる。


「ああ、風呂は食い終わったら入れるぞ。風呂はほかの連中と同じだが、あちこちから人が来ておるから気にせず入っていいそうだ」


「風呂まであるのか!?」


「ああ、なんでも身を清めることで病に罹りにくくするんだと」


 ……まさかこんな野営の陣とも普請場ともつかぬような場所でも風呂があるとは。恐るべし織田。わしも度肝を抜かれたわ。


 我らはどこぞの使者ではない。ただの素破なのだぞ。


「なあ、本当にいいのか?」


「構わん。上忍も知っておることだ。ただし織田領での盗みなどは厳禁だがな」


 仲間のひとりは恐くなったのか、飯を前に迷っておるが心配はいらん。我らには毒を盛る価値もないのだ。


 それに織田家に恩を売るのは上忍も知っておることだからな。その代わりというわけではないが、織田家に逃げた者たちは追わぬという掟だ。


「塩も味噌もよくきいておるな」


 美味い。塩味の薄い雑炊など食いたくなくなるほど美味い。今日は腹いっぱい食って、風呂に入って明日には伊賀に戻ろう。


 素破がもどらぬなどよくあること。久遠家ではもどらぬと案じて探しに行くと聞くが、浅井久政では気にもするまい。


 わしもここに来るまでは万が一でも織田家が負けると困ると思ったが、この様子では万が一もないな。


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