第554話・近江の方
Side:近江の方
決めたのはあれだけ織田に敵意を抱き、実の父すら討つと意気込んでいた殿が、織田には勝てんと臣従を決めた時でございます。
家と領地を守るためには、いかな手段も用いていた義父様が戦もせずに織田に降り、そんな義父様に怒りをみせていた殿もまた同じ決断をした。
単純な織田の勢いというだけでは済まされないことは、それだけで少し考えればわかることなのでございます。
近江の兄に勝てる相手ではありません。兄の頭にあったのは家を己のモノにすることと、亡き父を超えることだけだったのでございますから。
女の代わりなどいくらでもいる。かつて私が兄に言われた言葉です。我が子を宿した奥方を簡単に六角家に人質として出すような男なのです。私が喜太郎を連れて戻ればどんな扱いを受けるか考えるまでもありません。
こちらから文を出すことも、なにかを求めることもないのですっかり疎遠となり、今では文すら寄越しません。
『織田弾正忠様は慈悲深いお方だ。わしが敵対したことを笑って許してくれた』
殿が帰蝶殿の婚礼の儀から戻ってこられた際に、こぼした言葉からも明らかになりました。兄ならば激怒して憎み恨むでしょう。表向きは許してもどこかで潰すことを考えるはず。それが今の世では当然と言えば当然なのでございましょう。
されど織田は蝮と言われた義父様や、敵対する姿勢をみせた殿がいる斎藤家に少なくない援助と優遇を与えているのです。底が知れません。
「これが清洲でございますか」
弾正忠様は私と会われると申されました。酔狂なと思うとともに私にとって正念場になるでしょう。
尾張など田舎だ。浅井家ではそう見ておりましたし、斎藤家でも似たようなものでございました。つい数年前までは。
川舟にて尾張へと参ると、清洲の思いの
「わかっておるであろうが……」
「はい。斎藤家と殿のお立場を悪くするような真似は致しません。いかなる運命となっても私は強く生きて参ります」
殿は未だ不安げな様子です。でも私はそこまで不安は感じておりません。仮に弾正忠様が私を側室にと求めるなら、それに従うつもりでございます。そうなれば殿には織田から新しい嫁が来ることになるでしょう。
「近江の義姉様。お久しゅうございます」
「帰蝶殿、いえ帰蝶様と呼ばねばなりませんね」
川舟から降りて清洲の町を眺めていると、思い掛けない出迎えが待っていました。帰蝶様です。織田弾正忠様の嫡男である三郎様に嫁いだお方、殿の妹になるお方。
稲葉山にいた頃は、よく近江の話などをせがまれて話したものです。
「お迎えに参上いたしました」
「自らのお出迎え、感謝いたします」
嫡男の奥方となった帰蝶様がまさか出迎えに現れるとは。嫁ぎ先で軽んじられているのかと不安になるほどです。とはいえ帰蝶様の表情は晴れやかとしております。それは杞憂でございましょう。
「帰蝶、そなたが出迎えか?」
「織田ではそれほど珍しきことではございませんよ、兄上」
晴れやかな表情で殿と会話する帰蝶様の変わりようには驚かされます。自ら織田弾正忠様の首を獲って斎藤家を守るとまで言っておられたのに。
「積もる話もございますが、城に参りましょう」
私たちに用意されていたのは籠ではありませんでした。馬に繋がれた荷車? いえ、荷車は失礼ですね。漆塗りの黒い箱には織田家の家紋があります。
「これはなんでございましょう?」
「馬車でございます。まだ織田家にも数は多くありませんが、籠より速くて乗り心地もなかなか悪くありません」
「えっ、これは……」
案内されるまま馬車という乗り物に乗りますが、驚いたのは透き通る壁があることでしょう。風通しのために開いているものだと思っていたものが、氷のような透き通る壁でした。
「それは硝子窓といいます。久遠様がもたらされた南蛮渡来の品でございます」
硝子窓。信じられません。まるで氷のように透き通っております。
このようなものまであるとは。硝子は私も存じております。殿が硝子の盃を織田弾正忠様に頂き、大切に眺めているのを何度か見たことがございます。
それがこのような形で使われているなんて……。
清洲城ではこの日、織田一族と重臣の茶会が開かれているようです。
一旦休息のための部屋に通された私は、織田弾正忠様との謁見に相応しい着物に着替えて、茶会へ参加することになりました。
茶会の場は広間でございましょう。驚くべきは斎藤家でも近頃になってやっと手に入れた椅子と食卓が、幾つもならんでいることでしょうか。それとも、見たこともない髪の色をした女がいたことでしょうか。
あれが噂の久遠家の奥方様でございますか。
「本日はお招きありがとうございまする」
殿と共に挨拶をした相手は尾張守護の斯波武衛様と、横に控えておられる織田弾正忠様でございます。傀儡だと聞いておりましたが、随分と親しげに歓談されておられます。
ああ、このお方が仏の弾正忠様でございますか。
「よう来たの。今日は茶会じゃ。楽にして楽しんでいかれよ」
「ありがとうございまする」
「時にそのほうが、新九郎殿の奥、近江殿か?」
「はい。近江の浅井亮政が娘でございます」
武衛様はご機嫌麗しきようで殿にお声を掛けたあと、私にもお声を掛けていただきました。このお方も知っておられるのですね。今日のこの日の意味を。
周りには多くの織田家家臣とその奥方様がおられます。この場では特に問答をされることもないまま、お二方の場から下がりました。
「斎藤殿と奥方様。さあ、どうぞ」
その後、数人に挨拶をした私と殿に茶を出していただいたのは、桔梗の方様と称される久遠家の奥方様でございました。
「これはかたじけのうございます」
これは……、なんと飲みやすい紅茶でございましょう。斎藤家でも少し前から紅茶は飲まれるようになりましたが、これほど美味しい紅茶は飲んだことがございません。
「近江の方殿は、自らお子を守りたいとか」
「はい、その覚悟は持ち合わせております」
紅茶で一息ついた時、不意に桔梗の方様からお声を掛けられました。まさか、このお方に試されている? 義父様が私のことを相談した際に久遠様が同席していたはず。
殿の表情も真剣そのものでございます。そう見るべきなのでしょう。
「その覚悟はご立派かと思いますわ。ですが、ご自身の決断で敵味方問わず、多くの人の命が失われるかもしれないということは、どうかお心に留めておいていただきたいと思いますわ」
それは胸に突き刺さるような一言でした。
織田を戦に巻き込むのかと言われることは考えておりましたが、味方の兵ばかりか敵方の兵の命まで失われることを考えるとは思いませんでした。
戦で人が死ぬのは当然のこと。己の意思や家を守るためには必要なことなのです。犠牲を恐れてはなにも成せないはず。
父も兄も義父様も殿も、皆がそんなことを言ったことなど一度もございません。
「無論、
違う。見ているモノがまったく違う。
ただ単に慈悲深いだけではないのかもしれません。浅井を兄を信じられぬという理由で、自害してでも帰らぬと安易に口にした私への戒めの言葉なのでございましょう。
我が子だけを見ていては大切なものを見失うと、教えていただいたのかもしれません。
背筋が冷たくなるような気がしました。これが織田を天下へと導くと義父様がおっしゃっておられた、久遠家の奥方様でございますか。
私など及ばぬ存在。
されど、喜太郎だけはなんとしても守らねばなりません。
たとえこの身に代えても……。
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