第553話・交渉のゆくえ
Side:今川義元
雪斎が尾張から戻ったが、その面相で交渉がいかがであったかわかるの。
本音を言えば聞くまでもないことなのじゃ。わしが織田や斯波でも和睦などするまい。織田から見て今川は邪魔で、斯波から見ると過去の恨みを晴らす絶好の機会なのだからな。
「ほう、交渉が続いたか」
「はっ、されど管領推挙の件は武衛殿の怒りを買うてしまいました。いかにも公方様と管領には、相当思うところがあるようでございます」
和睦は断られたが一年の停戦ならば叶うか。こちらの弱みに付け込んだと怒るべきか、それともこの状況で一年の猶予が得られることを喜ぶべきかの。
「仕方あるまい。わしもそなたも、斯波家の者と会うたことなどないのだ。人の考えなどわかるものではない」
雪斎は斯波家を読み間違えたと今にも腹を切りそうな面持ちじゃ。とはいえそれも仕方ないことじゃ。そもそも今の斯波武衛は長らく傀儡として軽んじられておったからな。
わしもよく知らぬし、調べさせたこともなかったわ。
「まあ斯波武衛の気持ちもわかる。連中は畿内の外など興味がないからな。もっとも足利家が憎いからこそ、管領となり足利家を潰す足掛かりにするかと思うたのじゃが……」
「そこは拙僧にもわかりませぬ。ただ、織田と斯波の思惑には管領は必要なかったのかと思われまする」
それより面白くないのは吉良家のことじゃ。連中め、管領などより吉良家をこちらで引き取れなどと厄介なことを。吉良家を切り捨てられるからこそ、西三河から退いたという本音もあるというのに。こちらの思惑を悟られたかの。
本家は本家なのじゃ。わしが潰せば角がたつ。織田と斯波が潰すならば、たいした手間ではあるまいに。それをわざわざ交渉事に持ち込むとはの。
仏という風評を気にしたということか。
「まあ、よい。吉良家はこちらで引き取るとするか」
「では一年の停戦でもよろしいので?」
「ここで突っぱねていかがするのじゃ。できれば織田に引き渡す領地を西三河に限ることと、停戦の期間を延ばしたいが……。まあ引き続き交渉をすることだけでも意味はあろう」
正直、織田と斯波など始末してしまいたいとすら思うが、それができぬのがわしの立場なのじゃ。いい加減認めねばならん。今川はこの先、信秀や義統を主君と仰がねばならんかもしれんことをな。
織田は誇りや面目で戦はせぬ。損得で動く。恐らく久遠の知恵であろう。今川と戦をするよりも和睦して同盟するほうが得だと思わせなくてはならんのじゃ。
「幸いなのは、武田では織田と上手くやれんことかの」
「確かに、織田は武田とは組みますまい。信義を重んじて民のことを思うを標榜する織田からすると、裏切りと奪うことばかりする武田と組めば、自身の評判を落とすことになりかねません」
信義か。こんな世じゃ。裏切られたほうが愚かなのじゃとも思うが、皮肉なことにわしですら武田を信じるくらいならば、織田を信じるほうがいいと思うのじゃ。他も似たようなものであろう。
「あとは北条かの…」
「その件につきまして、織田からは武田と当家のいずれかが北条に手を出した場合には、この停戦は無効とするという条文を入れるようにとも、求められましてございます」
「わしが武田と謀ることを警戒されたか」
残る課題は武田と同盟を結んでおる北条を抑えねばならんことじゃが、織田は北条のことにまで口を出すのか。
武田と同じ扱いはさすがに許せぬが、関東諸将と武田と組んで関東に攻め入ることを警戒されたか。前例があるゆえ仕方ないことか。
「それだけ当家が追い詰められておると織田には知られておる様子」
つまり武田を攻めるのは黙認するが、北条に被害が及ぶなら黙認はせぬということか。
同盟も結んでおらぬ北条に随分と気を使うな。北条幻庵が尾張に行った成果か。
「まあいい。一歩前進したのじゃ。引き続き任せる」
限りなく細い道じゃな。いっそ織田と戦をしたほうがいいとも思えるわ。家中が騒ぐのも当然のことよ。
とはいえ信濃で敗けた武田のほうが攻めやすいからな。今ならそれで家中を納得させられるはずじゃ。
Side:久遠一馬
もうすぐ師走に入ろうとしていた。三河では本證寺の蜂起からもうすぐ一年になるので、慰霊祭の準備をしている。
主催は斯波家だが、松平などの西三河の国人衆や今川家にも声を掛けている。和睦交渉に義元が激怒して戦になる可能性もあったが、そこまで短絡的じゃないらしい。
「凄いですね。一年前と大違いだ」
今日、オレは三河に来ている。慰霊祭の準備と本證寺の跡地の視察だ。
メンバーはエル、ジュリア、セレス、ケティ、千代女さんに、一益さん、石舟斎さんと、ジュリアが指導している武闘派の皆さんや警備兵の選抜からなる護衛が五百名になる。
護衛は少し人数が多いが、信秀さんがオレに付いて少しは領地の治め方を学べと命じた結果、武闘派が付いてくることになった。
商人風情になどと反発があるかと思ったが、意外にみんな喜んで来ている。これって地味にジュリアが彼らを指導している成果だろう。文官を軽く見る風潮は依然としてあるらしいが、自分たちの領地をより良くしたいという思いはみんなある。
そういう人たちと交流が持てたことで、最近では農業改革について興味を持ってくれる人が増えたことは喜ばしいことだろう。
「皆が頑張っておりましたからな」
本證寺の跡地に来る頃には、三河安祥城を任されている信広さんと三河衆が大勢同行していた。なんというか尾張から来たみんなは和気あいあいとしているが、三河衆の皆さんは緊張感がある感じだ。
オレの機嫌を損ねると大変なことになるとでも考えている気がする。実際にオレが褒めると皆さんがホッとした表情をした。
変だな。そこまで厳しくしたつもりはないのに。
「しかし、三河はまだまだ原野が多いね」
「あのあたりは台地になっており、水が得られぬので開拓も進んでおりませぬ」
本證寺の周辺はまあいい。区画整理もできているし、近隣の領民の視察にいっても飢えている様子はない。オレたちを拝むのはやめてほしいんだが。まさか誰かが命じたとかないよね?
ただ矢作川西岸は、尾張と比較してもかなり未開の土地が多い。エルいわく西三河の
「エル、開拓するとどのくらいになりそう?」
「本腰を入れて開拓するには矢作川の水を引く必要がありますが、現状の三倍ほどの収量は確実かと思います」
「さっ、三倍でございますか?」
矢作川西岸の開発は、三河衆と三河の領民がびっくりするくらい協力的なんだよね。尾張に負けないと意気込んで頑張っている。
でもさすがに彼らも、碧海台地を明治用水に相当する開発をすると仮定した収量には驚きを隠せないらしい。
「無論、費用が相応にかかりますよ。矢作川の堤防もありますので、すぐにとはいきませんが、ここの開拓は優先したいですね」
三河は本證寺がなくなって本当にやりやすくなったんだよね。とはいえ河川の改修と治水はとにかくお金と労力がかかる。それでも放置するのはあまりに惜しいな。
史実で開拓に成功した実績があるしね。
「そこまでできるのでございましょうか?」
並み居る武士が驚く中で、オレに直接問い掛けてきたのは本多俊正さんだった。この人ってたしか、史実の本多正信の親父さんなんだよね。
結構有能らしいと報告があったな。
「資金と人は有限ですからね。どこにどれだけ銭を使うか考えて決めるんですよ。とはいえ、ここは本證寺もなくなってやりやすいんですよね」
荒れ地の原野が耕作地に変わる。まあ想像はできても、本当にできるか半信半疑な部分もあるんだろう。
織田家だからと尾張だけを優先するのではなく、治める土地はみんな考えていると示す必要もある。その意味でも明治用水に相当する開発はいいかもしれない。
ここを開拓できれば、東三河や遠江に対するアピールになる。今川にはちょうどいい圧力になるだろう。
尾張とか三河とかで分断するのではなく、広範囲で考えるように織田家でもするべきだろうね。
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