第550話・学校の様子
Side:久遠一馬
今川との和睦は期間限定の停戦で交渉を進めることとなった。
今川の三河からの撤退、吉良家の処遇、織田領の者が今川領内を通過することを邪魔しないことなどが基本的に織田からの要求だった。
停戦期間は織田からは一年を提案した。
一年の停戦にしては過大な要求にも思えるが、今川の都合が良すぎる和睦と比較するとこんなもんだろう。斯波家と織田家は今川を信用していない。その意思表示にはなるはず。
吉良家の件はオレが言ったことで議論となった。対今川の開戦の口実のひとつともなる存在であり、そこまでしなくてもという意見もあったんだ。
ただ、遠江までは開戦の口実が必要ないこと。それと織田が遠江まで攻めてしまうと、当たり前のように遠江にあったとされる吉良家の旧領の回復を訴える公算が高いこと。
なにより今の織田や斯波に吉良が必要かといえば要らないという意見となった。将来的な遠江攻めの際に邪魔になるのではという意見が根強かったのも要求に加わった原因だ。
まあ停戦に対する反対もあったが、一年の停戦で吉良家の排除と今川の西三河からの正式な撤退がなれば織田としては悪くない取り引きとなる。
東三河は要求はするが、あまり期待はしていない。撤退して確保できたら儲けものというところだ。西三河と東三河の間には三河山地などの山岳地帯があり、防衛に少し手間がかかるという理由がある。
そもそも三河に関しては、今川が取り込み策として今川家中と血縁を持たせたりするなど家臣化を進めていた。本気で平定するなら軍を挙げて従えなければ駄目だろう。
もっとも今の織田が戦をしたあとに所領の安堵を呑むのはまずあり得ないが。
織田領の者が今川領を通過することを邪魔しないことに関しては、以前からあったことだが、忍び衆を警戒して西から来た者を不当に捕える者が未だにいるからだ。
特に一部の国人や土豪では織田領の人間だと分かると不当な扱いをする場合がある。おかげで該当地域には忍び衆には行かないようにと命じているし、織田領では硝石は当然として武具や鉄などの戦に転用されかねない品は今川への販売を禁止している。
今後もそれを解除する予定はないが、北条との交易に陸路が使えれば商機が生まれるからね。
さて、この日は那古野の学校では多くの人で賑わっていた。
「木工組は一番教室に、絵師組は二番教室に、鍛冶組は三番教室に入ってください」
学校の職員が集まった人たちを誘導している。集まったのは日頃賦役で働いている領民だ。
実は少し前から賦役の参加者に対して適性テストをしていたんだ。現状では単純労働しかさせていないけど、手先が器用な者、絵のセンスがある者、鍛冶に向く者などを選抜して教育することにした。
教育する間は織田家で賦役と同等の生活を保障することになる。その代わり、一人前になったら一定期間はこちらの指定した仕事をしてもらうという約束だ。
いよいよ学校にて職人の育成が始まるんだ。
「どうなるかな」
「問題点の洗い出しと改善は随時必要です。ただ生産能力向上のためには基礎技術のある職人を多く育てませんと」
オレとエルは学校の職員室でその様子を眺めていた。まあ元の世界と違い硝子窓はないので縁側に座って見ているんだが。
木工組は基礎課程が終わったのちに、大工・船大工・木工職人など専門的な指導をする予定だ。
絵師組は陶磁器の絵付けをやらせたいし、漆器職人にもしたい。質のいい陶磁器や漆器は日ノ本国内は元より、将来的には輸出商品になるだろう。
鍛冶組は鍛冶や鋳造など、工業村の鉄の生産量を考えると多くて困るということはない。
「みんな。今日も頑張りましょうね!」
視察に来たが、それほどすることがないので学校内を見て歩く。
学校を任せているアーシャは、いつもと同じように子供たちの授業をしている。
「アーシャ殿。できたぞ」
「それで正解よ。さすがですね、若武衛様」
なんの授業をしているのかと思えば、そろばんの授業だ。というかアラビア数字を使っているね。教えていたのか。
ちょうど問題を解いていたのが岩竜丸君だった。彼は史実で斯波義銀となった人だ。問題に正解するとみんなで拍手していた。もともと教育は受けていたからか結構優秀らしいね。
「若武衛様、上手くやっているようでよかったよ」
「城の中に閉じこもるよりは楽しいのでしょう。先日は親しくなった子たちと釣りに行ったようです。年下への面倒見もよくなったそうで、評判もいいですよ」
学校で一番の不安要素だったからなぁ。岩竜丸君。
城だとお付きの家臣や侍女が一から十までやってくれるが、ここでは家臣や侍女の手だしは遠慮してもらっている。
最初はそれもまた不満だったらしく、身分が低い者たちの面倒を見るなんて考えられなかったんだろう。アーシャは、よくまああそこまで教育したね。
率先してみんなの模範になるようにしているようだ。
アーシャの教えている教室から離れると沢彦宗恩さんの授業もあった。こちらは信行君とか元服が近い武士の子たちがいる。
「うんうん。それでいいよ~」
一方ひと際賑やかな教室があった。ここはパメラの授業か。日常で役立つ応急処置の授業みたいだ。生徒はほとんど大人だ。
武士に仕える小者とか武士の人もいる。笑い声が聞こえるほど和やかな雰囲気の授業だ。
医師や看護師の育成も順調だ。当初は以前から薬売りなどをしていた甲賀出身の忍び衆などの一部の志願者のみだったが、病院にて医師や看護師志望の人を募集する張り紙をしたらボチボチ集まっている。
武芸が得意でない武士の子なんかが多いね。
「みんな、勉強熱心だね」
「教育を受けられるのは幸せなことだと、皆さん理解されているんですよ」
喜んで学ぼうとする人たちを見ていると嬉しくなる。学校もここまで来るには苦労もあったからなぁ。
「学校のシステムも普及させる前に考えなくちゃね。教師に過剰な負担が掛かるようなことにはしたくないし、義務的に教えている教師や変な全能感に酔って子供たちを支配しようとする教師に人間形成なんかの指導をさせたくない」
「難しい問題ですよ」
ただ学校となると、どうしても元の世界の自分の経験を思い出してしまう。正直、オレは学校というところがあまり好きではなかった。あまりいい先生に出会わなかったということもあるんだろうが。
しかし大人になってわかることもある。思春期のデリケートな時期を迎えた他人の子供を面倒みて指導する大変さ。加えて部活やなんかでろくに休みも取れない仕事なんて、ろくなもんじゃない。
世の中を変える難しさはこの時代に来て学んだ。教師が子供たちに勉強を教えやすい環境と仕組みをこの時代から土台くらいは作っておきたい。
その難しさからか、エルには苦笑いをされてしまうが。
「現状だと、その前の段階か。尾張でさえ読み書きを全員が学ぶ機会がないからなぁ」
「かわら版の影響もあり、文字を学びたいという人は増えていますよ。それと書物も増えていますから今後は更に増えると思われます。ただし教師として僧侶を採用しない場合は、教師の確保が困難です。武士も決して教師に向いているわけではありませんので」
「うーん。教育から宗教は分離したいんだけど……」
「現状では基礎教育は各地で教師として地元の僧侶を採用して、強い監査権限のある役職を創設して監視させるほうが現実的です。それに僧侶にも社会の一員としての役目を与えねば、新たな時代に乗り遅れてしまい、将来深刻な問題になる可能性もあります」
学校はうまくいっている、ただそこから先が、またいばらの道なんだよね。
この件はエルたちのみならず、資清さんとか信長さんたちともよく話すべきか。
みんなが楽しんで学べる学校を全国に普及させたい。そのためにはどうしたらいいのか、よく考えないといけないね。
◆◆◆◆◆◆◆◆
天文十九年、秋。織田学校にて職人の育成が始まったことが『織田学校史』に記載されている。
教育は久遠家がもっとも力を入れていた分野のひとつで、久遠家のみならず尾張の職人たちの協力を得ての新たな試みだったとある。
急速な発展を遂げていた織田領であるが、人材の育成は急務であり、これは織田学校初代学長として有名な天竺の方こと久遠アーシャの肝いりの試みだったようである。
同年代の滝川資清による『資清日記』には、久遠家が畿内に頼らずモノを作ることを考えていたことが記されていて、これもその一環だったと思われる。
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