第541話・天の動き

Side:今川義元


「左様か! 武田が負けたか!」


「はっ、武田方の大将、晴信は手傷を負い、命からがら甲斐に逃げ帰りましてございます。大敗と申してよろしいかと」


 雪斎より信濃で村上と戦をしておった武田が敗れたという知らせを聞く。久方ひさかたの吉報じゃ。わけがわからぬ織田と違い、武田はわかりやすくてよいの。


「雪斎、甲斐を攻めるにはこの好機を逃せまい」


「はっ、織田と北条への根回しを急ぎまする」


 やはり甲斐の武田を攻めるしかあるまい。北信濃の村上如きに苦戦する、源氏の流れをうそぶく武田風情しか攻めどころがあらぬとも言えるがの。


 心中しんちゅう懸念けねんは織田と北条だ。こちらが甲斐を攻めておる時に動かんとは限らん。


 織田は領地が広がりまだ日が浅い。つねかんがみて見れば遠江まで獲る余裕があらぬように思えるが、雪斎はむしろ対今川でまとまることもあり得ると言う。臣従したばかりの三河者や美濃者の眼前がんぜんに褒美を積み上げて見せれば、奮起しよう。織田にはそれが為せる財がある。


 北条は河東の一件を根に持っておるであろうし、里見に少し色よい返事をしたこともある。北条は関東で手一杯でこちらを敵に回す余裕があらぬとは思うが、織田が動けば呼応せんとも限らん。


「雪斎、まことに織田と北条を抑えられるのか?」


「最善は織田と北条との三か国での同盟でございましょうか。最悪は拙僧が人質となっても……」


「同盟は『成れば』でよい。じゃが人質は出さん。むろん雪斎、そなたを尾張にやる気もない」


 やはり織田を抑える妙手みょうしゅはないか。されど、わしの母や子を仇敵である斯波と織田のもとに人質としては出せぬ。左様なことを致せば、今川家は甲斐を攻める前に家中が割れてしまう。


 同盟ならば一考の余地があるが……。


「三か国での同盟か。それが成ればいいが。果たして斯波が納得致すか否か。遠江の代わりに三河はやってもよい。それと斯波が管領を望むならば助力もしよう。それでまとめて参れ。駄目ならそれまでじゃ」


 こちらが出せる条件は多くはない。そもそも仇敵である斯波や織田にここまで譲歩するのは、わしとしてもおもしろくはないのじゃ。


 雪斎は今の今川家では織田には勝てぬと言うが、わしはたたこうてもよいとも思う気持ちもある。


 誇りもなにもかも捨てて生きるのが正しいのかと未だに悩むのだ。




Side:久遠一馬


 砥石崩れから数日で早くも詳細が尾張に届いた。というかさ、今川に雇われている伊賀者が、今川より優先してウチに知らせに来るんだからちょっと笑える。


 直接会ってはないが、報酬は弾んでおいた。これまで資清さんが食事などで、もてなしをしたおかげだろう。気持ちの問題だと資清さんは話していたけど。


 苦労して報告に来たんだから、労いの言葉ひとつでも違うんだそうだ。というか労いの言葉すらないことがあることに驚きだね。


「ほう、天は今川の味方か?」


 オレはその報告をすぐに信秀さんに知らせに来たが、信秀さんは動揺することなく今川に有利になったことに面白そうな笑みを浮かべた。


 同席しているのはエルと信長さんと斯波義統さんだ。この件は遠江も関わるから義統さんにも早く知らせないわけにはいかないからね。


 ただ、信秀さんも義統さんも側近すら人払いしているのが、この件の重要性を物語っている。


「いずこかといえば弾正忠、そなたに天が味方したと言えるのではないか? 今川さえ騒がねば領内の『改革』とやらが進められよう。それに武田が信濃を制すれば美濃が危うくなる。これで当分信濃から美濃に攻めてくることはあるまい」


 一方、義統さんはこの影響を考えていたが、近隣の地図を見てこちらが有利となったことに気付いたらしい。本当に戦の経験がないだけで、凄い人だね。


「さて、いかがなのでございましょうな。とはいえ今川がまことに甲斐を攻めるをすならば、遠江奪還の好機でもありまする」


「遠江か。取り返したので、わしに遠江に出ていけというのは困るの」


「左様なことは、申しませぬ」


 信秀さんも言う通り、遠江奪還が現実味を帯びてきた。というか義統さん。そんな心配していたの? 追い出すなんてするはずがない。義統さんには、今後幕府や朝廷のお相手という重要な仕事がある。こればっかりは身分と家柄がある義統さんにしか出来ない仕事だ。


 信秀さんも苦笑いしている。まあ遠江奪還が現実味を帯びてきたからこそ、やっぱり遠江が欲しいと言い出してもおかしくないからね。一応確認したんだろう。


「できれば武田と今川は潰し合ってくれるといいんですが……」


「そなたも中々、恐いことを言うの」


 地図を見ると甲斐と信濃は大変そうだね。上を見れば越後がある。長尾景虎。史実の上杉謙信がいるんだ。北信濃は越後との関係が強いからね。


 つい本音をこぼしたら、義統さんに恐いと、おどけた様子で言われた。でも、この場の誰もが思っていることだろうに。


「現状では、今川よりここ。越後の長尾家。今年の春に守護である上杉定実殿が亡くなり、じつを握っておられる守護代の長尾景虎殿が治めております。ここと繋がりがほしいところです」


 場が和んだところで、エルは今後の布石となる提案を口にした。


 謙信とは斯波も織田も今のところ特に交流がない。とはいえ信濃や関東に飛騨など、今後織田も関わる可能性があるとなると、確かに謙信と一定の交流は必要だろう。


「東美濃も思うておった以上に面倒だからな。遠山家などいまさら同盟などと言い出す始末だ」


 エルの提案に信秀さんは同意しつつ、少し不愉快そうに先日の武芸大会のあと、遠山家が提案してきた話を教えてくれた。


 実は遠山家は婚姻による同盟をしてほしいと言ったらしい。織田による美濃統治を認めるとも言ったらしいが、自分たちの領地には手を出してほしくないようだ。おまけに『七頭』と言われるぐらい、纏まりがなく、一族の総意か怪しい。


 信秀さんの話には義統さんも信長さんもあきれ顔だ。同じ武芸大会のあとに道三さんが臣従したいと信秀さんに直接頼んだだけに、余計に遠山家の提案は微妙なものになっている。


 土岐家が健在な時だったら、まだそれもあったんだろうけどね。美濃の大勢がすでに決まってから、婚姻による同盟と織田の美濃統治を認めると言ってもさ。


 とはいえ、おかしいのは道三さんのほうなんだよね。織田の統治を認めるので血縁がほしいと言い出した遠山家は、この時代では割と普通の対応だと思う。


 それなりの勢力はあるんだ。まあ比較的海が近くて、川の水運や主要街道により交通の要所である大垣とか西美濃ほど重要ではないが。


 織田を認めないと抵抗したり、近隣の武田とかを引き込まないだけの分別があるだけに扱いが難しい。


「親父、斎藤家はいかがするのだ?」


「臣従を正式に申し出てきたのだ。要らぬとは言えぬな。蝮の覚悟と顔を潰すことになる。奴もわかったのだろう。すでに畿内がいつこちらを巻き込むか、わからぬということがな」


 遠山家の扱いに少し沈黙が辺りを支配したが、そこで信長さんが斎藤家の件を口にした。


 信秀さんは臣従を認めるという方向で調整するらしい。たしかに正式に言い出した以上は、今はまだ要らないとは言えないよね。


 斎藤家を臣従させて、ほかの美濃の国人衆も順次正式に臣従させる必要があるか。


 本当はもう少し改革が進んでからにしたかったんだけど。臣従したあとで国人衆が持つ権利を取り上げると、補償とかしないといけなくなるからさ。


 織田の家中から改革で取り上げたあとに臣従するなら、臣従の条件にしてしまえば済むのに。


 何もかも上手くはいかないか。




◆◆

斎藤家。美濃の道三の家。


今川義元。駿河遠江東三河を治める大名。


雪斎。太原雪斎。黒衣の宰相。今川家の中心人物。


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