第540話・砥石崩れ

Side:武田晴信


 さすがは砥石城といったところか。敵は未だに士気が高い。対する味方は被害が出るばかりで士気が落ちるばかりだ。


 ここを落とせば村上もあと一息だというものを。それにここを落とさねば困ったことになるやもしれんのだ。


 それというのも、今川の様子があやしい。西の三河で織田との戦いにひと区切りを付けて以降、一向に動く気配がない。西三河の人質を返してしまい、まるで織田にくれてやるとでも言いたげな様子が気になる。


「まだ素破はおるか?」


「はっ、そのようでございます」


 戦場に商人などが出入りすることは珍しくはない。だがそれに混じって今川の放った素破が探っておることに気付かぬとでも思ったのか?


 まあ、それはよい。同盟相手とはいえ、互いに隙あらば、いつ寝首をかかれるかわからぬ間柄あいだがらだ。


 問題なのは同盟の証として義元に嫁いでおった姉が、今年亡くなったことだ。当然ながら弔問の使者を送った。


 その際に正式な話ではないが、代わりに同盟の証として今川に誰ぞ嫁がせる話を少しさせたが、義元め。今しばらく喪に服したいと言いよった。


 同盟を反故にするとまでは言わぬが、今川が放った素破の数が増えたことと合わせると気になるのが本音だ。




 近頃は陣中の様子が重苦しい。皆が『そろそろ陣払じんばらいを』と言いたいのが明らかだ。


 味方の士気が上がらぬのは、一向に砥石城を落とせる目途が立たぬがゆえもあるが、とある噂が流れておる故もある。


 尾張の織田は、攻め取った敵地の領民にまで飯を食わせておると噂になっておるのだ。調べさせたら事実らしい。


 信濃望月めが尾張望月を羨んで、勝手にあれこれと調べておったのが露見したようなのだが、信濃の国人衆がそれを聞いて、わしに不満をもつようになった。


 尾張など遠い他国のように感じるが、信濃は隣国が美濃だ。すでに織田は西美濃を手中に収めて、東美濃もいつ臣従してもおかしくないほどだ。いっそ西から織田が来ないかと願う者たちがおることに怒りを感じる。


 所詮、すべてわしが奪うのだろうと思うておるようで、士気が上がらぬ。


 それを否定はせぬが、従う者には所領の安堵をしておるのに、それでは不満だというではないか。


 織田も困ったことをしてくれる。


「申し上げます! 村上は高梨と和睦した模様。こちらに反転攻め寄せてきます!!」


 如何にして士気をあげるかと悩んでおったところに、最悪の知らせが舞い込んだ。


「是非もなしか。……急ぎ陣払い致すぞ」


 口惜しいがこのままでは挟撃されてしまう。中信濃の小笠原長時を下したまま退くべきだったか。


 なんの成果もないまま退くのは痛恨の極みだが、致し方ない。




「申し上げます! 村上勢の追撃により殿しんがりは壊滅! 更に信濃衆より寝返った者もおる様子! 全軍が混乱しております!」


「御屋形様!! ここは早くお逃げください!」


 なんと情けないことだ。甲斐源氏の名門であるわしが、このようなみじめな思いをせねばならんとは。


 だが、殿が壊滅したのは事実だ。あとは混乱して何が本当で、何が間違いかすら確認が取れぬ。


 影武者を立てて今は退くしかない。村上め。覚えておれ。この屈辱はかならず晴らすからな。




Side:久遠一馬


「司令、武田が敗れました」


 暦は十月に入っていた。真剣な表情のエルが人払いをしたことで、自室にはオレとエルのふたりだけになった。そこで知らされたのは砥石崩れの知らせだった。


「歴史通りか」


「いえ、歴史以上の大敗です」


 ただエルが慌てた理由は、その大敗の度合いになる。命に関わるほどではないが、晴信も手傷を負ったようで、七千いた武田軍は半数近くが死傷したらしい。


 史実では千人の死傷者だと伝わるはずだが。というか半数って壊滅と同じだよね。しかも晴信が負傷したとは。


「原因は?」


「これは推測になりますが、私たちの影響かもしれません。信濃望月家は尾張望月家を羨んで随分と調べていたのですが、その情報が信濃の国人衆にも広く流れていました。結果的に武田への畏怖いふが史実より薄れ、嫌悪けんおの念が増したのが原因かと。信濃の一部では武田よりは織田のほうがマシだという直裁ちょくさいな意見もあったほどです」


 信濃の望月家かぁ。望月家惣領なんで相応に立てていたが、尾張望月家を妬んでいたことで困った人たちだと望月さんが悩んでいたんだよね。


 この世界にきて感じるのは、元の世界の歴史のイメージがいかにあてにならないかだ。武田晴信なんて、三方ヶ原で徳川家康に勝ったせいで美化されたなんて話もあったが、そうだなと感じるほどだ。


 もっとも武田晴信が強くなるのはこれからのはず。まだ若いし、この時期が武田晴信の一番苦しい時期のはずだ。


 信濃もね。武田晴信が大好きで来てくださいと熱望したわけではない。同盟と裏切りを繰り返す武田を好んでなんていない。とはいえ山国で食料生産力に乏しい甲斐で豊かになるには外に討って出るしかない。


 苛烈で敵対した相手の土地から、農産物・人・物品、奪えるものはすべて奪うような武田を好んでいるわけではないんだ。臣従しても、何もかも奪われて無人とも言える所領にあまりなまでの重税を課せられた上に、理不尽な冤罪で、潰されるだけだしね。


 織田が三河と美濃で善政を敷いた結果、史実以上に反武田感情が信濃にはあったということか。


「ここで痛い目を見て、もっと強くなるかな?」


「そうかもしれません。彼にその時間が残っていればですが……」


「今川が動くか」


 現状でも晴信はその辺りの国人なんかよりは強いし、賢しいのも確かだけど、ここからが晴信の成長と真価が発揮されるところのはずなんだよね。


 先代からの重臣がこの頃の敗戦で亡くなることで、晴信が自分の好きにやるはずだったような。


 発展途上の晴信、対するは全盛期の義元になるのか? 太原雪斎の寿命次第では、本当に甲斐を獲っちゃうかもね。


「いっそ、このまま武田と今川には潰しあってもらうほうがいいのかもしれません。美濃の斎藤家が臣従を強く求めています。この隙に斎藤家と美濃を取り込むことを考えてもいいかもしれません」


 斎藤家。具体的には道三さんが再度臣従を求めてきた。先日の武芸大会のあとに信長さんの取り成しで道三さんと義龍さん親子と話す場が設けられたんだが、その席でだ。


 臣従するとしないとでは、織田から受けられる恩恵がまったく違う。清洲・津島・熱田・那古野・蟹江の勝手な関所は撤廃したが、新たに織田領外からの人を検める関所は設置したし、領外から来る商人に対する税は織田家でとっている。


 税の課徴率かちょうりつも商人のふところから出て行く金額としては以前の個々払いを総計したのと変わらぬ水準でだ。あちこちでとらない分、一回でとる金額は大きくはなったね。それは大湊も変わらない。


 大湊に関しては、武芸大会の期間は大湊が大会に協賛したので期間限定で税を免除にしたが。終わった今となっては以前と変わらぬ程度の額はとっている。


「できれば新しい統治体制が整ってから、臣従してほしいんだけどね」


「それを織り込み済みで臣従を願いましたので、若様の領地での改革と三河本證寺の元寺領の様子を見たうえでの、臣従を願うということです。仮に改革を進めても斎藤家は反対まではしないでしょう」


 早く臣従したほうが得だと道三さんは理解しているらしい。土豪と土地を切り離すことを信長さんの直轄領でやっているが、それもやってみたいと言ったほどだ。


 確かに早く臣従したほうが、条件は良くなるんだよね。統治体制が整ってからだと無条件に従うか、全てを賭けて戦うしかなくなるが、整う前なら相談したり統治体制に意見だってできる。


「でもさ、畿内を刺激しないか?」


「それは、もう時間の問題ですね。主に堺が原因です。彼らのせいでこちらの国力と影響力が強いことが知られてしまいました。松永弾正殿は気付いたでしょう。畿内の諸勢力がいつ巻き込みに来るかはわかりませんが、斎藤家が新統治体制を受け入れる覚悟があるなら受け入れるべきですよ」


 美濃を併合したら畿内の泥沼に巻き込まれるのがね。


 とはいえエルが言うようにそろそろ限界かな。斎藤家が織田家と戦う気がないのは美濃ではすでに知られていることだ。


 あと数年は時間を稼ぎたかったんだが。


 というか堺のせいなんだね。あの連中ときたら。まったくもう。


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る