第525話・今川家の秋

Side:今川家家臣


 この日、駿河のとある者の屋敷では、わしを含む若い武士が多く集まって酒を飲んでおった。


 皆、駿河の者で今川家古参の家の者ばかりだ。以前からよく飲んでおったが、近頃はその機会が増えた。


「雪斎和尚は、いかに考えておるのか……」


「織田に臆したと噂だからな」


 酒を飲む機会が増えた訳は、太原雪斎和尚への不満だ。もともと御屋形様は重要なことは和尚とばかり相談して決める御方だが、近頃はその内容に多くの者が不満を感じておる。


 特に西三河と織田の扱いは深刻だ。


 本證寺の蜂起を鎮圧してもうすぐ一年になるというのに、未だに西三河へは誰も人を送っておらず西三河からの人質も、駿河に戻されておらん。


 このままでは西三河を織田如きに盗られるぞ。せっかく三河奉公人であった山田殿が、織田と一向衆の共倒れの策を用いて一向衆を潰したというのに。


 思えばあの戦の頃から和尚はすでにおかしかった、山田殿の策をすべて無駄にしおって。一向衆を滅ぼしたのは織田と一向衆をぶつけた山田殿の手柄であろう。それなのに和尚は、まるで己の武功のようにしてしまったではないか。


「我らはまだいい。だが年寄りどもはもっと怒っておるぞ。先代の斯波を倒して遠江を得たことが自慢な連中だからな。斯波とその守護代家でしかない織田などに臆したとなれば、和尚など殺しかねんほどだ」


 過ぎたことを言うても始まらん。ここに至っては織田と交渉するのは構わん。とはいえ今川家とすれば、織田に三河から出ていけというべき立場であるからな。だが肝心の交渉が始まる気配がまったくないことも家中が苛立つ理由だ。


「ここだけの話だが、和尚は三河ではなく甲斐を攻めたいようだぞ」


「なんだと!?」


 織田ごときの造る酒など飲めるかと言うて濁酒を飲んでおる我らだが、ひとりの者が内密の話を明かすと騒然となる。


 甲斐の武田とは、御屋形様の亡き奥方様が嫁いできて以降は同盟関係であろう? 亡くなったとはいえ、まさか裏切るのか!


「その話、真であろうな?」


「信じられんなら、己で確かめればいい。だがわしはそう聞いた」


 確かに今川家では戦の支度もしておる。だがあれは三河の織田征伐だという噂があったのだが、欺瞞だったのか?


 噂を明かした者も詳しくは知らんようで、あとは勝手に調べろといい加減なことを言う始末だ。とはいえよくよく考えればあり得なくもない。


 和尚が織田に臆したとすれば、三河ではなく甲斐に行くと言い出してもおかしくはないのだ。


「しかし、何故甲斐なのだ?」


「そこまでは知らん」


 冗談ではないぞ。何故あのような山奥にわざわざ行かねばならんのだ? そもそも三河はいかがするのだ? 現状で甲斐と戦でもしようものなら、織田は喜々として三河に攻め入るぞ。


「なあ、和尚は織田に内通しておるのではないのか?」


「まさか、臆したというのはあっても、欲で動く男ではないぞ」


 今川家が繁栄するならば、甲斐を攻めても構わん。だが三河が先であろう? 誰かが内通の嫌疑を口にすると、少し静かになった。


 さすがにそれは話を飛躍し過ぎだ。いけ好かぬ坊主だが、御屋形様への忠義だけは確かなはずだからな。


「だが、このままでは三河を織田に盗られてしまい、遠江に攻め込んでくるぞ」


「御屋形様には……、言うても無駄であろうな。山田殿があれだけ織田を野放しにするのは危ういと訴えても、罪人としてしょされた」


 年寄りどもは今の御屋形様の御父上であった、先々代の御屋形様を今も懐かしんでおる。あの頃はよかったとな。


 今の御屋形様は我らの声など聞きもしないから気持ちはよくわかる。


「なあ、本当にあの御屋形様でいいのか? 今川家のためには……」


「滅多なことは言うな! そんなことを口にしたと知られれば、我ら皆が謀叛人にされてしまうのだぞ!!」


 考えてみれば今の御屋形様の長兄であった先代の御屋形様が亡くなった時、腑に落ちぬ事が幾つかあった。今では急な流行り病だったとなっておるが、同日に同じく次兄の彦五郎様も亡くなっておる。


 しかも御屋形様は彦五郎様のことを、まるでおらなかった者のように扱って御系譜からも消してしまった。ふたりは今の御屋形様による謀殺だったと、以前に噂程度だが聞いたことがある。


 そんな御屋形様では下手なことを言えば、なにをされるかわからん。


 もともと我らと和尚は決して同義ではなく明白に違うことがある。我らは今川家に忠義を尽くすが、和尚は御屋形様に忠義を尽くす者だということだ。


 相容れないのはそこであろう。


 だが今川家のためを思えば、本当にあの御屋形様でいいのかは疑問もあるな。




Side:太原雪斎


 武田はとうとう中信濃を制したな。林城の小笠原長時ではいつまでも抑えられんと思うておったが。


 次はそのままの勢いで北信濃の村上の砥石城を攻めるようだ。砥石城は難攻不落の城のようだが、武田とて無策ではあるまい。時がかかってもいずれは落ちる。


 このままの勢いで連中が信濃を制すると次は越後か上野か駿河か。いずれにしても領国で大人しくしておる連中ではないな。


 武田が信濃を制するまでに武田攻めを始めねばならん。当然ながら戦の支度は進めておるが、問題は山ほどある。


 織田を如何にして抑えるか。それと今川家中の問題も深刻だ。家中では織田攻めはいつやるのだと、いきり立つ者が多い。


 織田には三河を渡す必要があろう。それでも織田は矛を収めることは難しいであろうな。面倒なのは斯波家と今川家の因縁があることだ。


 斯波家には管領就任を後押しする密約を交わすか? 現状では空手形となるが、かつては三管領と言われた斯波家だ。遠江の代わりとなる三河と、かつての栄華の再現といえる管領の地位でいけぬか?


 そのうえで人質がるな。だが、御屋形様の血縁を尾張に出すのは無理だ。家中が許さんからな。


 織田とて、いずれは畿内へと進むはずだ。あそこは場所も絶妙だからな。畿内のほうが放っておかぬはず。


 いかにしてもというなら、本当に我が命と引き換えにしても……。


 家中に対しては、織田攻めをやらんとは言えぬ。困ったことに先々代の頃に、先代の斯波家から遠江を奪ったことを自慢しておる古参の年寄りが騒ぐのが目に見えておる。


 それに現状ですら遠江の国人衆からはおのれたちからは人質を取るのに、何故、西三河からは取らんのだとの不満が聞こえてきておる。


 仮にだ。織田と戦になれば今川家はひとつにまとまれるであろう。最初の戦だけはな。


 しかし勝てん。いや、最初に勝っただけでは駄目なのだ。久遠の船がある限り、海では勝てん。駿府を筆頭に海が近いところは、海からの攻めを警戒して守らねばならん。


 守りに多くの兵を置けば、攻める兵はいかほどになろうか。


 そのうえで織田の産物は手に入らなくなり、西からの品物は甲斐の武田を経由して手に入れるしかなくなる。


 織田は金色砲や鉄砲が使える戦や、海戦などの己に有利な戦だけしておればいいのだ。あとはじわじわと銭で崩されて終わりだ。


 家中にすべてを話すか? それも駄目だな。織田には勝てんと知られれば、東三河と遠江が離反する。駿河は理解出来ぬか、理解を拒もう。


 戦うしかないのだ。武田と。そして甲斐を制して信濃へと進むしか、今川家が生き残る道はない。


 わしも五十を超えた。残された時は多くはない。御屋形様のため、この命を懸けてさねばならんのだ。


 いかほどに困難であってもな。




◆◆

太原雪斎。和尚。今川家の黒衣の宰相。


山田殿。山田隆景。三河奉公人として、一向衆と通じて織田と一向衆を共倒れしようとして太原雪斎に捕らえられて今川義元に処刑された人。

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