第521話・信長さんのお仕事

Side:久遠一馬


 信長さんの直轄領の改革は、表立った反対がなかったことで、施策のための検討を始めることになった。


 具体的にどこを誰が治めているかを一覧化して、領内の利水や入会地という共同管理しているものなど、細かい領地の実態を調査していくことになる。


 信長さんが直接統治するために問題になりそうな所を事前に調べて、必要な法や解決策を検討して整備していくことから始める。


 この時代の自治は、村単位の惣が最小だ。自力救済であり基本為政者が救済することも関与することもほとんどない。


 為政者は興味がないとも言えるし、村も口を出されるのを望まないというのが基本だ。何度か言っているが、隣村ですら敵だと考えている場所も珍しくない。


 とはいえ織田領はもう自力救済ではない。流行り病が出れば薬を送り、医師を派遣するし、飢饉になれば食べ物も提供することを約束している。


 そろそろ統治体制にもメスを入れていかないと、現行の制度が天下統一まで残ることになりかねない。中途半端な時期にできる改革ではない。織田家に圧倒的な力があって、まだ領地が限られている現状でなくばできないだろう。


 鎌倉以来武士が築きあげてきた体制を否定することになるんだから、下手な時期にやれば臣従した武士が一斉に反旗を翻すなんてこともありえるからね。


「若様、あれでは駄目です」


 評定の翌日、清洲城では信長さんが、表情だけはにっこりとしたエルに怒られていた。


 重臣の皆さんも信長さんのことを理解していて自分たちから声をかけていたが、このままでは意思疎通がうまくいかないだろう。


 同席しているのは政秀さんと信康さんだ。


 まあ史実では位牌に焼香用の抹香を投げていた頃だからね。それと比較するとまあ成長しているんだろうけどね。


「信念もなく簡単に裏切るような者ほど扱いやすいのです。胸の内になにを収めていても表面では信じていると見せておくべきでしょう」


 あくまでも非公式の場だが、信長さんは大人しくというか少しシュンとなって聞いている。本当に叱られる子供のような感じだ。


 ただまあ、主家の嫡男を叱る家臣の妻という光景に信康さんは驚いている。むろん信康さんも、エルが今の織田家を実質的に舵取りしていると言っても過言でないことは理解しているが。


 それでも一般的な武家ではありえない光景だろう。


「そこまで気を使わねばならんのか?」


「今は必要ありません。ですが今後織田家が更に大きくなり大殿が隠居なされたら、今の評定衆が若様を支える者たちになるのですよ。若様の御心がわからず皆も不安なのです。こういう言い方は適切ではありませんが、喧嘩をして怒鳴りあってもいいのです。きちんと向き合ってあげてください。もし天下をお望みならばですが……」


 少し沈黙が辺りを支配する。信長さんもわかっているはずだ。とはいえ今までと違うことに変えるには抵抗があるのだろう。


「三郎、少しいいですか」


 そのまま信長さんが答える前に、この場に姿を現したのは土田御前だった。


「母上か、いかがなされた?」


「言うべきことは、ほぼエルに言われてしまいましたね。ですが私からも一言。あなたが過去に不満を持っているのは知っています。将来のために幼くして独立させたために寂しい思いをしたのでしょう。辛い思いもしたでしょう。すべては私の不徳と致すところです。不満があるなら家臣ではなく私にすべて言いなさい」


 土田御前の雰囲気がちょっといつもと違うので席を外そうとしたが、土田御前は不要だと言うと信長さんに語りかけた。


 そうか。心配してきたんだな。信長さんを。それがオレにもわかる。


「母上……」


「あなたには理解できないでしょう。常に怯えて不安を感じながら生きる者のことなど。物心ついた時から、この尾張で殿に勝る者などいなかったのですからね」


 土田御前は淡々と国人や土豪の心情を語っていた。怯えや不安。本当にそうなんだよね。この時代だと希望が戦に勝つことくらいしかない。


 戦をしなくても希望を持てる体制が必要だろう。


「あなたも信行も市もみんな私がお腹を痛めて産んだ子です。私は多くを望みません。されどあなたたちとほかの殿のお子が、互いに争い殺し合うことだけはしてほしくありません。幾度でも重ねて言います。不満は私に言いなさい」


 信長さんは困った表情をしている。不満というか言いたいことはあるんだろう。とはいえそれを簡単には言えないよね。いい歳をした男の子がさ。


「私はいつでも構いません。私のところに言いに来なさい」


 結局土田御前は最後にそれだけを言うとこの場から去っていった。




「これをすべて読むのか?」


「そうですよ。わからないところや疑問があれば言ってください」


 お説教が終わると信長さんの前に分厚い書面しょめんつづりを数冊置いた。ここからは俺の出番だ。


 実は今日の予定はお説教ではない。そろそろ信長さんも本格的に織田家の統治に関わることになったんだ。当面は勉強だけどね。信秀さんはもちろんながら、信秀さんを補佐している政秀さんや信康さんと一緒に実地で経験を積んでいくことになる。そう、見習いさんになるのだよ。


 この日はオレも付き合って、まずは手始めとして信長さんの勉強のために、ここ半年の訴訟の内容を記した調書ちょうしょの山を目の前に置いてある。ちょっと分厚い綴りが数冊になるかな。訴訟の数もそうだが、過去を含めて聞き取り調査の話を記録もしたので一件の文章量が結構なものになるんだ。


 信長さんの表情がちょっと優れない。どっちかと言えば体を動かすほうが好きな人だからね。これを全部見るのかと言いたげだ。


「細かい仕事は担当を決めて任せてもいいんですよ。ですが若様は決断するのが仕事です。特に厄介なのが訴訟ですから。これから学べば、あとはなんとかなります」


「……お前、遊んでおるように見えて仕事は凄いな」


 訴訟の記録から比較的にわかりやすい記録を見つけて信長さんに説明していく。双方の意見プラス第三者にも聞き取り調査をした結果、片方の嘘が明らかになった事件だ。


 論理的に考えていくと結構単純な話なんだが、出所が怪しい古い書状なんかで嘘をついていたのが面倒だった件だ。まだ先代くらいならいいが、数代前になるとロクに記録もないので真偽の証明が大変になる。


 でも『遊んでいるように見えて』って酷くないか? でもまあ信長さんですらそんな認識なんだから、ほかはもっとそう見えるんだろうね。


 教育は偉大だよね。元の世界では平均くらいだったオレもこの時代では優秀な部類に入る。まあ睡眠学習とかで知識なんかは補足した結果だけど。


「一馬殿の文官仕事は早いですぞ」


「里帰りしておった時は難儀大儀なんぎたいぎの有り様だったんだぞ」


 微妙な話も終わり、同席している政秀さんと信康さんもホッとした様子で仕事を再開していたが、ひとつひとつ信長さんに教えていると褒められるというか感心された。


 いや、いつもお市ちゃんとか、ロボにブランカ、家中や孤児院の子供達と遊んでばっかりじゃないから。ウチはエルたちと資清さんたちが優秀なことで、仕事が早いのと効率がいいので遊んでいるように見えるだけだ。


 こういう、改革とまでは言えないが、効率的な仕事の仕方とか地味に違うんだよね。帳簿の書き方ひとつとっても違う。ウチではすでに複式簿記を使っているし、資料なんかもわかりやすいようにしているんだ。


 この辺も教えているんだけどね。一斉に変えたわけじゃないので、いろんなやり方が混じったりしていて、織田家全体ではまだまだ効率はよくない。


 まあ焦らずやるしかないことなんだけどさ。





◆◆

信康さん。織田信康。犬山城城主。信秀さんの下の弟。現在清洲で信秀さんの補佐をしている。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る