第499話・嵐の夜

Side:佐治水軍の船乗り


 海が荒れだした。こんな陸もない場所で。臆病な奴はさっきから念仏を唱えているくらいだ。


「荒れてきましたな」


「こんなものじゃないネ。まだまだ荒れるネ」


 驚いたのは船の差配にとリンメイ様が来たことだ。久遠様の奥方様の中では一番よくお会いするお方だ。


 津島に行った際には酒や飯を食わせてくれるお人なんだ。殿もさすがにリンメイ様には気を使うらしい。


 対策は難しくねえ。久遠様の布のいかりを海中に入れて帆を畳むと、あとは船首を波に向けてひたすら耐えるだけだ。聞いた話では、布の錨は「しーあんかー」というもので、それを船首から海に入れておくと、常に船首が波の方向を向くらしい。久遠様でも嵐の中ではさすがに走らないんだな。


「さあ、飯だ」


「おおっ、今日は瓶詰か!!」


 最後の飯になるかもしれんと思っていたが、出された飯に思わず声が出てしまった。ビスケットという保存食と果物の瓶詰だった。ビスケットはともかく瓶詰は甘くてうめえんだ。


 中身はみかんじゃないみたいだな。なんだこりゃ?


「南蛮ではマンゴーと呼んでいる、遥か天竺にもある果物ネ」


「天竺の果物ってすごいな……」


 みんなでなんの実かと話しているとリンメイ様が教えてくれた。天竺にある実だなんてこりゃあ縁起がいいなぁ。


「お前たち早く食え。揺れてこぼしても知らんぞ」


 もったいなくて拝んでいる奴までいるが、呆れた様子の殿に命じられてマンゴーという果物を食った。


 おおっ、甘いだけじゃねえ。みずみずしくて、なんとも言えねえほど美味い。


 これが最後の飯かも知れねえんだ。味わって食わねえと。


「ひいいっ!」


「沈む!!」


「おらは、生きて帰ったら嫁もらうだ!」


「たわけ! 落ち着かんか!!」


 日が暮れると暗い中で船が軋む音がする。大波をかぶったのだろう。船が大きく上下に揺れた。


 若い奴が取り乱して念仏を唱えだすと、うろたえる奴が出てしまい騒ぐ奴もいる。殿の怒りの声が聞こえるが、それでも落ち着かんやつもいるじゃねえか。


「大丈夫ネ。このくらいならまだまだ余裕ネ」


 ただ、さすがは久遠様の奥方様だ。リンメイ様はこの揺れの中で書物を読んでいるじゃねえか。すげえよ。


 わしらは朝を迎えられるんだろうか。




side:久遠一馬


「わっわっわっ」


 船が傾くとお市ちゃんの楽しげな声が聞こえる。危ないからと乳母さんが抱きかかえているが、お市ちゃんは不安げな様子の欠片もない。状況をわかってないね。


「わん!」


「わん! わん!」


 ロボとブランカはいつもより大きい揺れに反応して吠えてる。嵐と戦っているんだろうか? 船酔いに苦しんでいる人も多いからオレが彼らをなだめて吠えないように落ち着かせるか。


 それにしても緊張感が足りないね。信光さんなんかは酒でも飲んでいれば嵐は過ぎると言い出して、勝家さんとか可成さんとか船酔いに強い人たちとお酒を飲んでいるしさ。


 現在四隻いる船は停泊している。ただし、佐治水軍の久遠船が危うい時はこの船で助けに行くことになっている。


 まあ海中には潜水艦がいて、久遠船のシーアンカーをうまく繋いで波に船首が常に向くようにしているから大丈夫だと思うけどね。


「嵐の海に出航でござる!」


「行っちゃだめなのです!!」


 夜も更けていくと海はどんどん荒れて船が揺れる。そんな中、船内ではすずとチェリーのコントが始まった。


 うん。暇なんだね。君たち。


 お市ちゃんは乳母さんに抱かれながら寝ちゃったし。この状況でも就寝時間はいつもと同じだったことに重臣の子弟の皆さんは、さすがは殿のお子だと感心しきりだったくらいだ。彼らは船酔いに苦しんでいるからね。


 勝家さんがすずとチェリーのコントに大笑いしだした。この人と可成さんも結構余裕だね。船酔いしている人が多いのに。信光さんと彼らはお酒に酔っているくらいだ。


 資清さん・太田さん・信清さんもダウンしたほどの揺れなんだけどな。


「そろそろ休みましょうか。朝には峠は越えていますよ」


 二人のコントが終わると就寝することにした。オレも少し眠いしね。不安がない分、緊張感がないのはオレも同じか。


 もっともウチのメンバーが不安そうにしたら、それこそみんなが不安になるので不安そうには見せられないんだけどね。元の世界の軍隊でも、上官は絶対に動揺や不安そうな様子を見せてはいけないんだ。それをやると、部下に動揺や不安が広まってしまうそうだ。


「大丈夫?」


「はい。だいぶ楽になりました」


 オレたちの船室では、すでに船酔いだったお清ちゃんと千代女さんが寝ていた。声を掛けるとお清ちゃんは笑顔を見せてくれたが、まだ酔っている感じだな。


 オレとエルたちは酔わないからね。ふたりを見守りつつ寝ようか。




 翌朝、昨夜の嵐が嘘のように穏やかな朝だった。オレはすずとチェリーに挟まれながら熟睡していたから気が付いたら朝だった。


「全船無事です。現在損傷の点検をしております」


 起きた時にはすでにエルが指示を出した後だったようで、特にやることはないみたい。


 佐治水軍の船も無事だ。本当によかった。さすがに新造船が沈むとか申し訳なさすぎる。


「姫様、眠れましたか?」


「うん。よく眠れた」


 オレも船内を見て回ることにしてお市ちゃんの部屋に来たが、お市ちゃん自身はいつもと変わらず元気なようで、嵐で酔って少し具合の悪そうな乳母さんを看病していた。


 乳母さんのほうはすでにパメラが薬を飲ませたというので、じきに良くなるだろう。


「若様は少し寝不足そうですね」


「さすがに揺れが気になったからな」


 一方の信長さんはあまり眠れなかったらしい。そこまで神経が太くないか。史実だと神経質なイメージもあるし、繊細な人と言えばそうだしね。


「なんか佐治水軍の船は元気そうだね」


 そのまま船室から甲板に出るが、佐治水軍の船では船乗りの皆さんが元気に騒いでいるのが見える。


「不安から解放された結果ネ。無事にフラグを乗り越えた猛者もいるネ」


 佐治水軍の船を任せていたリンメイもすでに戻ってきているが、佐治水軍の船を眺めてクスクスと笑っていた。どうしたんだろうかと思ったが、あっちの船にはドラマのひとつもあったらしいね。


 フラグって、なんのことかわからないが。



「あっはっはっは。海は気持ちがいいな」


「まことにでございますな」


 そういえば姿が見えないと思った信光さんと慶次は、いつの間にか海で泳いでいたらしい。


 縄梯子で海から上がってきて気分よさげにしている。この人たち海の男のほうが合っているんじゃないのか?


「全船、問題ありません」


「よかった。全船に点呼を命じて。終わったら出発しようか」


 ほかに泳いでいる人がいないことを確認していると、エルが航行に問題がないと報告にきてくれた。いつまでも止まっていても仕方ないし、出発だ。


「ほんとうだ! 海がくろい!」


「あれが黒潮というんですよ。このあたりでは、南西から北東に流れる潮です」


 エルが言うには船団はそれなりに流されたらしい。少し走ると黒潮が見える。せっかくなんでお市ちゃんに見せてあげると驚いている。


 比喩ではなく黒潮って黒く見えるんだよね。もっとも正確には青黒く見えるというべきかもしれないが。


 原因は元の世界では判明している。プランクトンなどが少ないので透明度が高く、太陽の光が反射しないことにより光が届かない深い場所が見えるために黒く見えるんだそうだ。


 この時代ではそこまで言えないけどね。


 尾張まであと何日かな。


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