第498話・帰路と嵐と
Side:久遠一馬
「よくわかるものだ」
島を出発して五日目の夜になる。エルが海図に現在位置を記していると、信光さんが感心したように声を掛けてきた。
旅は順調だった。少しばかり波が高い日があったが、風がよかったので進んだ日でもある。こうして地図で進んだ距離を大まかでも見られるとホッとするのが本音だろう。
「潮の流れを横切る場所までは進みますよ」
この航路の問題点は南西から北東へと流れていく黒潮だろう。黒潮の幅はおおよそ百キロメートルある。黒潮は三ノットから四ノットの速さで流れるから一時間で六キロメートルから八キロメートルは流される。風の状況にもよるが、数十キロメートルは流されることを計算した航路になる。
「少し飲まぬか?」
すでにお市ちゃんなどは就寝している。船乗りのみんなは夜を通して走るので交代で働いているが。
今夜は波も比較的穏やかだ。ランプの明かりの中で信光さんに誘われて少し寝酒を飲むことにする。
「世の中とは面白いが無情だな」
信光さんとオレとエルの三人だけでのお酒は初めてかもしれない。信光さんはくいっとグラスに注がれたお酒を飲むと、ふと真意が読めないことを口にした。
「久遠島のようなところもあれば、松平のように一族で潰し合っておるところもある。織田もあまり褒められたものではないが、あそこまで行く前に兄者がまとめてよかったと思うのだ」
割と本気で島に残りたがっていたようだけど、一族を思う気持ちはあるんだね。視野を広げるという意味では、もしかすると信長さん以上に意味があったのかも。
「孫三郎様はご自身が尾張を統一というおつもりはなかったのですか?」
「お前は誰もが聞きたくても聞けぬことをあっさりと聞くな。まあ、そこが気に入っておるのだが。ないと言えば嘘になろう。ただ兄者がおるのに争ってまでとは思わんな。それこそきりがなかろう」
ちょっと聞いてみたかったことを聞いたら、呆れられつつ、あっさりと教えてくれた。
信光さんは変にお世辞とかいう人があんまり好きじゃないんだろうな。そんな感じ。ほどほどでそれなりの立場で好きなことをしたいというのが本音かも。
意外と本質はオレと似ている気もする。
「まあ、そうですよね」
「お前も同じであろう? 織田を乗っ取って自ら上に立ちたいか?」
「嫌ですね」
「わしもだ。特に近頃の兄者の苦労を見ておればな。ここの所は与次郎兄者まで駆り出されておるからな」
オレも感じていたことだ。信光さんも感じていたんだろう。誰もが天下を狙ってみたいわけではない。下剋上の時代のようだが、望まず下剋上をしなくてはいけなかった者も多いと思う。
「銭を稼げばいいのであろう? 戦などせずとも食えるし酒も飲めるようになる。わしはお前の真似をするぞ。簡単ではないだろうがな」
「そういえば孫三郎様は稲作の改革に前向きに協力してくれていますね」
少ししんみりとしたところで、偽らざる信光さんの本音が出た。
ウチの真似する気なのか。反発するよりいいけど。そういえば今年から始めた農業改革も、信秀さんと信長さんの直轄領と同じく積極的に協力してくれたんだよね。
そんな思惑があったとはね。なんか考えてもいいかも。
翌朝、朝食を食べ終えたオレたちは船を止めて四隻の船の船長を集めていた。
「かず、なにごとだ?」
この旅で船を止めて船長を集めたのは補給の時を除けば初めてになる。当然信長さんたちも後学のために同席していて、信長さんはなにか空気の違いを感じたらしい。
「日暮れ前には嵐が来ます」
外は快晴だった。そんな中でオレは嵐が来ると告げた。ただ、当然ながら織田家御一行様は本当かと半信半疑な様子だね。
「私から詳しく説明いたします。本船団は今日にも黒潮に入る
海図を広げてエルが説明を始めた。正直ウチの船だけならば魔改造船だしいいんだが、佐治水軍の久遠船がいるからね。対策が必要になる。
ちなみに裏事情としては、島を出る前から天気予報で嵐に遭う確率が高いことはわかっていたことでもある。こちらには衛星もあるし、宇宙要塞のコンピューターもあるからね。
エルたちと相談した結果、嵐の経験も積んでもらうことになった。無論久遠船が耐えられるレベルの嵐だと予測してのことだが。
もうじき黒潮の流れになるが、黒潮の途中で停泊すると東に流されるからね。万が一を考えるとなるべく安全な場所で嵐をやり過ごすほうがいい。
「なるほど……」
佐治さんは嵐だと聞いて顔色が変わった。関東行きの時にはガレオン船に乗っていたが、今回は自分の船に乗っているんだ。だからこそ、久遠船では外洋が厳しいと理解したんだが。
「佐治殿の船ですが、嵐を耐えるために久遠家の船乗りの指示に従ってほしいのですが、いかがですか? もちろん佐治殿がよければの話ですが……」
嵐の説明をエルが一通り終えると、本題に入る。船の指揮権を一時的に渡してほしいんだ。嵐を乗り越えるために。
実はこれはかなり無茶な要求だ。久遠船の船長は佐治さんだ。船長に対してお前の指揮では嵐を乗り越えられないので、船の指揮権をよこせと言ってるんだ。当然、佐治さんのメンツとかプライドに配慮しなくてはならない。
「そうですな。我らにはこのような大海での嵐の経験がない。よろしくお願いいたします」
「そうですか。よかった。最悪でも人員は必ず助けますから。じゃあ、リンメイ。何人か連れて頼むよ」
「任せるネ」
よかった。佐治さんは嫌な顔ひとつせずに承諾してくれた。当然身分も考慮しなくてはダメだろう。佐治さんの船はリンメイを送ろう。オレの妻なら佐治さんのメンツも潰れない。
だがここで佐治さんが驚いた顔をした。久遠船の危険性を理解しているからね。オレが妻を送ることに驚いたんだろう。
「よろしいのですか? 久遠船では危うきに過ぎるのですが」
「かまいません。海に生きる者の定め。それに必ず皆で生きて戻ります」
万が一なにかあれば困ると佐治さんも戸惑うが、このくらいの配慮は必要だろう。それに佐治水軍の皆さんは津島にもよく行くから、リンメイとは顔なじみだ。
「では皆様、よろしくお願いいたします」
最後にもう一度頭を下げて解散する。食事も嵐が来る前に済ませる予定だし、嵐の対策をしなくてはならない。
「あらし?」
「野分のようなものですよ。姫様」
佐治さんとほかの船の船長たちが出ていくと、今まで黙っていたお市ちゃんが口を開いた。みんなと一緒になんとなく同席していたが、子供ながらに口を挟む時ではないと思ったのか黙っていたんだよね。
だけどお市ちゃんは危険性を理解できないみたいだね。船酔いもしないから信光さんと同じく旅を楽しんでいるし、仕方ないけど。
「市は船が好きだからな。問題なかろう」
「うん!」
信長さん。そういう問題では。乳母さんが少し不安げだが、この人も地味にウチに慣れているからな。任せるしかないと覚悟している様子だ。
そしてお昼を過ぎて夕方に差し掛かる頃になると、海が荒れだした。
「大したものだな。先を読むか」
「久遠家の知恵です。雲の流れや風の感じ。また長年の積み重ねた経験ですね」
信長さんたちはすでに甲板には出ないように頼んでいて、船室でじっと船の揺れを感じながら嵐を耐えている。
信長さんが引っ掛かったのは嵐の予測だったか。元の世界では当然だった天気に関する知識なんてないしね。
お市ちゃんはロボとブランカに挟まれながら、どちらかと言えばわくわくした様子にも見える。不安はないんだろうな。
死を理解するには少し幼すぎる。
「海には嵐があるか。だが陸には地揺れがあるからな。この程度で震えては武士の沽券にかかわるわ」
「さすがは孫三郎様だ」
若干不安げなのは重臣の子弟の皆さんだが、信長さんや信光さんの肝が据わった姿に皆さん落ち着いていく。
嵐は朝には弱まるだろう。無事みんなで朝を迎えたいね。
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