第425話・本證寺の末路
Side:久遠一馬
織田と今川は双方ともに、三河から兵を退くことで合意した。ただ、三河の扱いや国境線は継続協議となった。
本当に最低限の合意のみであり、織田と今川に振り回されている西三河の国人衆には不満もあるだろうが、知ったことじゃない。
もう十二月に入っているんだ。このまま睨み合いをしていたら、正月までにみんなを家に帰してやれないじゃないか。
それにこれ以上なにかを決めようとすると、戦になりかねないのが現状だ。
まあ、一向衆が再蜂起したら協力する約束だけはした。もちろん西三河での再蜂起なんて、とても出来る状況じゃないけど。あくまでも織田と今川は、対一向宗では共闘するという形を残しただけだ。
ただ、石山本願寺の動きが読めないので、共闘という形は完全に無意味ではない。対石山本願寺での共闘であることを双方ともに念頭に置いている。
この合意に動いたのはエルだった。
年内に一定の合意をして三河の危険レベルを下げることが目的だ。それと今川と織田の関係改善の最後のチャンスだと思う。
一向衆の総本山である石山本願寺という共通の相手がいる今だからこそ、双方ともに兵を退いても言い訳が出来る。
実際に今川の畿内への影響力は馬鹿に出来るものではない。
「玄海殿、此度のことすべての責はそなたにある。なにか反論はあるか?」
この日、三河安祥城では尾張に帰還前の最後の大仕事として、本證寺の玄海上人と対面していた。
この場には先の本證寺攻めに従軍していた織田一族や重臣に、願証寺の高僧も本證寺の後始末のために来ていたので呼んだ。
あとは三河の国人衆たちも、当事者ということで特別に列席を許されているが、発言する者はまず居ないだろう。彼らは信秀さんの
正式には家臣でないが、斎藤義龍さんも援軍として来ているので親族として列席している。斎藤家は着々と
願証寺からは、鎮撫和平に奔走して殺された者たちを弔いたいと高僧が来ているんだ。むろん目的はそれだけではない。今後の本證寺系の寺の扱いに関与するためだろう。
実際、使者として本證寺に行った僧の首が晒されていたようで。高僧は悲しみの対面をしていたと報告を受けている。
だれも口出し出来る空気じゃない。政秀さんでもいれば違うんだろうが、政秀さんは清洲で留守を守っている。
あと、意見を口に出来るだろう信長さんは、口を開く気がなさそうだけどね。
「お待ちくだされ。玄海上人は、なにもしてはおりませぬ」
「黙れ!
信秀さんの問いかけに無言の玄海上人ではなく、後ろに控えていた学僧のひとりが答えるが、その答えに信秀さんの怒鳴り声が響いた。
その瞬間、三河の国人衆の中には顔色を真っ青にしている者もいる。
「玄海殿。自らの口で答えられよ。それが上に立つ者の役目だ」
「織田殿が拙僧の首を所望ならば、お好きになさるがいい。すべては、いずれ御仏が裁くことでございます」
なんと言うか、冷めているような表情だ。すべてが他人事のような、よく言えば客観的に見ているということか。
「それが死した者たちへの言葉か? そなたを信じて死んだ者も数多おるのだぞ」
「教えを守った者はすべて極楽浄土にいくでしょう」
わからない。オレ自身が神仏を全く信じないから余計にわからないんだろう。
ただオレが
彼らなら、この人の思考が理解できるのだろうか。
「人の上に立ち、奉仕を受けた者として、貴殿はなにひとつ自身で解決せぬまま仏に丸投げか。ならば遠慮はいらぬな」
ああ、信長さんがイライラしているのがわかる。ただオレとエルの顔をみてイライラした表情を消した。
信長さんは、前々からエルに注意されているからね。公式の場では嫡男が感情を軽々しく見せるべきではないと。
「本證寺の生き残りは、すべて尾張に連行する。此度の一件は、すべて改めて詮議の上で沙汰を下す。一揆だけではない。使者の殺害や我ら織田の領地での盗みまですべてだ。沙汰が下るまで本證寺にまつわる者は三河での如何なる振る舞い、その一切を禁じる」
信秀さんは、この人と話しても無駄だと思ったんだろう。話すのをやめて三河の今後について言及した。
「お、畏れながら。発言をお許しくだされ」
「許す」
「一揆に加わらなかった末端の寺には是非とも慈悲をもっていただきたく、伏してお願い申し上げまする」
裁きを下すまでの期間限定とはいえ、三河における本證寺に関係する者の活動禁止を命じると、願証寺の高僧が若干震えながらも信秀さんに意見していた。
「よかろう。願証寺は多くの犠牲を払ったのだ。その言葉を言う資格がある。ただし、守護使不入は沙汰が決まるまでは認めん。先に破ったのは本證寺なのだからな。その代わり該当する寺は現状維持だ。国人や土豪が勝手に寺領に手を出すのも税を取るのも認めん」
「ありがとうございまする」
このタイミングで本證寺を庇うとも受け取られかねないことを言うなんて凄い。
信秀さんはしばし考えたあと、いくつかの条件の下で末端の寺としての活動を認めた。
守護使不入。ある意味、今回の騒動の根源と言える制度の一時停止を決めたが、同時に勝手に寺領に手を出さないように三河の国人や土豪にも釘をさしていた。
いるんだよ。寺領を横領する気配を見せている国人や土豪が。
本證寺の生き残りは全員尾張行きだ。これはこの評定の前から決めていたことでもある。
本證寺の始末は石山本願寺からの返答待ちで、沙汰もそれが来ないと最終的には下せない。だけど待ち時間を無為に過ごしたりしない。こちらの有利になるように、事態を先に動かして、本願寺の挽回の芽を潰しておくんだ。
どちらにしろ本證寺の関係者を三河に残しても、いいことなんてない。
全員を分断して尾張にある他宗派の寺社に軟禁するのが当面の方針だ。
本證寺の跡地は亡くなった者の供養が終われば沙汰が決まるまで立ち入り禁止で、寺領は暫定的に織田家で管理するが基本放置だ。
本證寺領の領民は三河織田領に移して、それぞれに仕事を与える予定だ。
仮に本願寺が三河に寺院を再建しても、領民を返す気はない。
現状でも三河織田領には津島神社や熱田神社などに加えて、一向宗以外の宗派の寺社から人が来ていて、一向宗の信徒のケアをしてもらっている。
願証寺の手前あからさまな改宗は迫ってないが、身近な存在にほかの宗教関係者を置くことの影響は計り知れないだろう。
あちこちに寄進しているウチと織田家の尾張国内の寺社への影響力を考えると、このくらい朝飯前だ。
むろん願証寺の僧も来ているが、本證寺系の寺は混乱と疑いで動けないからね。織田領に限れば一向宗の影響は確実に落ちている。
これでやっと尾張に帰れるよ。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
本證寺の乱。または三河一向一揆。
天文十八年冬。三河の一向宗の拠点であった本證寺が蜂起、または一揆を起こした事件。
この一件は同じ本願寺系列の加賀一向一揆と比較されることが多いが、一揆と呼ぶのか、ただの蜂起と呼ぶのかで議論がわかれている。
そもそも民意のないこの蜂起は一揆ではないというのが通説である。
事の経緯は『織田統一記』を始め、同年代の資料の幾つかにあるが、根本的な原因は諸説ある。
そもそも資料のほとんどが織田側の資料ばかりであり、本證寺側の資料は驚くほど残っていない。願証寺の資料は織田側と分類され、本證寺への
同年代の資料からは織田家と本證寺が以前より疎遠だったことは明らかであり、三河で着実に勢力を広げている織田家と本證寺が対立関係にあったとの見方が、近年ではされている。
直接的なきっかけは、台風で矢作川が氾濫したことだと『織田統一記』には記されている。
織田家では治水工事などをしていて被害が少なかったようであるが、本證寺領では被害が深刻で、本證寺領の領民が織田領などへの略奪行為を始めたとある。
この件については織田家の治水事業のしわ寄せが本證寺領に行ったのではとの指摘もあるが、当時の寺社の領地は守護使不入という特権で他者の関与を
蜂起までの間には尾張と伊勢の境界にあった同じ一向宗の願証寺が、蜂起を阻止しようと奔走するなどしたが、最終的には松平広忠が守護使不入に反したとの名目で本證寺が蜂起している。
ただし、この松平広忠の守護使不入侵犯は、事実無根であることが後の織田家の調査で明らかになっている。石山本願寺や願証寺、本證寺の一揆反対派も特に反論していないことから、守護使不入侵犯が事実無根なのは確かなようである。
蜂起の原因は食料不足や強大化する織田への対抗心など諸説あるが、当時の三河自体が裕福になった織田領とその他の領地との格差が問題となっていた頃のようで、織田への対抗が蜂起理由のひとつと言われている。
この事件では、当時敵対関係にあった織田家と今川家が電撃的に共闘したことでも有名で、その裏には本證寺の蜂起を予測していた久遠一馬と通称『大智の方』こと久遠エルの策があったと伝わっている。
なお久遠エルと久遠ジュリアが織田家の公式の場に出席していたことが最初に確認出来るのもこの事件である。後世の創作物では彼女たちの活躍で三河の一向衆が壊滅したとされることも多い。
蜂起の結果は一方的で、織田と今川により蜂起した寺は焼き討ちにされたことで僅か一ヶ月ほどで終息を迎えている。
特に織田家による本證寺攻めは、投石機を用いて焙烙玉を撃ち込むという、当時の日本では新戦術とも言える圧倒的な優位の元に、本證寺を一夜で滅ぼした戦として有名である。
本證寺側は空から降ってくる焙烙玉に、仏の弾正忠に逆らった仏罰が下ったと恐れおののき、満足な抵抗も出来なかったと伝わる。
今川家の太原雪斎がこの知らせを聞いたことで、反対意見の多かった織田との和睦を急いだと言われており、彼が後世で評価をされている一因にもなっている。
この本證寺の乱は、織田家にとって寺社との関係のターニングポイントとも言われていて、寺社に対して寛容だった織田家を変えた事件としても知られている。
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