第419話・風前の灯火

Side:松平広忠


 さすがは今川家の太原雪斎ということか。


 好き勝手しておった三河の国人衆を、瞬く間にひとつにまとめてしまったか。


「ひとりも逃すな。降伏をせぬと言うた以上はすべて討ち取るのじゃ」


「おう!!」


 和尚率いる今川軍は七千ほどの兵で、勝鬘寺が見えるところまで迫っておる。


 西三河では吉良家が今川には従えぬと参陣を拒否したし、矢作川流域の国人衆には織田方に参陣した者も多い。ほかには織田と今川の双方に人を送った者もおるが、和尚はその者たちを不義、不忠、二心の輩とせずに駿河と遠江と東三河から集めた兵を主力にここまで来た。


 織田は一万五千も兵を動員したと聞く。数の上では今川は半数であるが、織田に傾いた西三河をこれほど見事にまとめるとは恐ろしき御仁だ。


 ただ織田も決して負けてはおらん。


 三郎五郎信広。つい数年前まではわしのほうが有利な立場のはずだったが、奴は織田の本隊が来るまで見事に領地を守ったばかりか本證寺を追い詰めおった。


 初手、初動がいかに重要かはわしにもわかる。織田に臣従した者の中には本證寺と付き合いがある者も多かったはずだが、ほとんど離反者を出さずにまとめた手腕はわしにはないものだ。


「和尚殿。ひとつ伺ってもよいだろうか?」


「なんでしょうかな」


「本證寺の混乱は今川の策でありましょうか? それとも織田の策ですかな?」


 居並ぶ今川家の諸将の前で、わしは聞いては為らぬと思いつつ聞いてみたかった。和尚がいかに答えるのかを。


 所詮、松平は捨て駒程度の扱いなのだ。今更、今川に媚を売る気はない。


「八割は織田の策であると考えるべきかの。山田が余計なことをしたせいで、混乱が酷くなったことが今川の策じゃとしても、ほとんどは織田の策であろうな」


 その答えに今川家の諸将が静まり返った。


 わしもまさかこの場で戦の前に、左様なことを認めるとは思わなんだ。


「いずこまでが狙いで、いずこまでが成り行きかは拙僧にもわからん。じゃが織田は明確な策を以ってこの戦に臨んでおるのじゃ。皆の者も決して油断するなよ」


 織田を認めつつ、わしの言葉を利用して、勝ちを意識した者たちを引き締めたか。


 本證寺は愚かなことをしたな。織田と今川、共に軽々しく敵に回してよい相手ではないわ。


「さて、最後まで抵抗するようじゃの。慈悲はない。全軍でかかれ」


 三河がこの後いかがなるかわからぬが、ここで松平の名を上げておかねば、松平に先はない。


 竹千代。


 尾張におるそなたに父の生きざまが届くように、わしは戦うぞ。




Side:久遠一馬


 とうとう本證寺を包囲するところまで織田は来てしまった。


 本證寺領の領民はここに至るまでに、だいぶ逃げてきている。坊主と僧兵は逃がさなかったが、領民は保護しているんだ。


 一揆は根切りでもおかしくないが、信秀さんは領民の場合は保護するようにと命じている。中には略奪や一揆の扇動者が紛れているかもしれないので、家族連れじゃない男だけの場合は簡単にだけど詮議をして、他とは隔離しているけどね。


 仏の弾正忠は優しいとか甘いという声が聞こえるが、信秀さんは単なる慈悲だけでそんなことをするほど甘くはない。


 ひとつは本願寺に対する『配慮をしている』というポーズだ。もうひとつは一向衆がいかに問題かを世の中に知らせるためでもある。


 一向宗の非道な坊主と、それから助けてくれる織田という構図を信秀さんは最大限に利用する気でいる。


 一向衆の生き残りはそんな現実を世の中に広めてくれるだろう。当事者が口にする悔恨かいこんの言葉ほど説得力のあるものはない。


 信秀さんは完全にオレたちの戦略を自分のモノにしたね。


 ちなみに織田は最近の戦で試していた兵糧の織田家による一括管理を、ここでも実践している。水野家の刈谷城や安祥城などの中継地を設けて、荷駄隊によって効率的に運搬しているんだ。


 兵糧は織田と臣従している国人衆の城に米の備蓄が十分あるが、今は尾張・美濃・伊勢から買っている。


 理由は二年連続で平年並み以上の収穫があって米が安いことと、最近少し儲けすぎていて銭が織田とウチに溜まっていることだ。


 そして最悪の場合として今川との戦も想定した、長期戦の戦略もまだ生きていることも理由としてある。


 まあ本命は経済の更なる活性化だけどね。回避出来ないのならば、長期戦は困るが短期の適度な戦は、今の織田では消費にちょうどいい。


 本證寺が知ったら怒るかもしれないけど。


 ただ荒れた三河を見ていると、早く終わらせないと復興の費用がどれだけ嵩むか心配になるけどね。それに三河は今回の一回で戦が終わるとは限らないし。


「あちこちの商人が来ておりますな」


 さて前方には本證寺が見えるが、後方には商人や遊女などが集まり、さながら市のように活気がある場所ができていて、織田軍の陣中から買い物に行く人達が見えている。


 佐治さんはその光景になんとも言えない笑みを浮かべているが、商人には情報を流しているからね。勝ち戦だし、稼ぎたいんだろう。


 当然ながら兵糧とかはほとんど売れない。織田で用意するからね。織田と親しい商人はそんな売れないものは持ってきてはいない。


 だがちょっとした嗜好品の煮出し茶葉や濁り酒、鮮度重視の食材、酒の肴用の料理なんかは結構売れているらしい。あとは弓矢とか武具に防寒具とかも結構売れているみたいだね。


 ただ問題がいくつかある。戦の後を見越して敗残兵狩りや死体からのぎ取りを目当てに集まっている連中もいる。どさくさ紛れに盗みを働く者や、勝手に戦に加わって乱取りをしようとする者など様々だ。


 戦場だからこそ治安維持が大変になっている。


 普通はそこまでこだわらずに戦をしているようだけど。今の織田には余計な連中は要らないんだよね。


「殿、今川は勝鬘寺を筆頭に、蜂起した寺や従わぬ寺を焼き打ちにして意気軒高いきけんこう、寺領の民はことごと乱暴狼藉らんぼうろうぜきにあってございます」


 織田も総攻撃の準備をしているが、今川に先を越されたか。


 忍び衆が向こうの様子を逐一知らせてくれるが、さすがは今川だ。容赦ないな。




「さて、仕上げの支度を始めようか」


「はっ!」


 総攻撃の準備が整った織田軍は本證寺を全包囲するように進軍した。石山本願寺からの使者は、残念ながら間に合わなかったね。


 距離があるし、意思決定にも時間は必要だろうから、仕方がない面もあるけど。


 ウチの軍は、今回は焙烙玉を撃ち込むために新たに投石機を用意した。金色野砲も持ってきたんだけどさ。ここまで一方的だと使う必要もないんだよね。


 山門を破壊するだけならば、抱え大筒隊で十分だし。三河衆とか美濃衆が本当に張り切っていて、先陣で攻めて功をあげるんだと意気込んでいる。


 ウルザたちが頑張ったから、ウチはこれ以上の手柄は要らない。警備兵も指揮することになったし、佐治さんのところの兵も鉄砲や火薬の扱いには慣れているからね。ウチの陣地は山門の正面ではない。


「あっ、若様」


「やはり金色砲は使わんのか」


「これと鉄砲で十分ですからね。この後、今川との戦もあるかもしれませんし」


 山門のないところから投石機で焙烙玉を撃ち込む準備をしていると、鎧姿の信長さんがやってきた。


 どうもあちこちを回って、武将や兵に対して激励と鼓舞をして歩いているみたいだ。先日、エルがやったほうがいいとアドバイスしていたんだよね。


 大将の信秀さんは本陣で動かないほうがいいが、信長さんはまだ嫡男という立場だから動いてもさほど問題はない。副将は信康さんだし、最悪の場合は嫡男の信長さんを逃がすために信広さんが指揮を執ることになるからね。信長さんが指揮を執ることはないから本陣にはいなくてもいいんだ。もちろん居場所は逐一報告して、近習の人たちも離れないけどね。


 若いんだし勉強を兼ねて前線から後方まで見て回ってもらっている。激励の言葉を掛ければ士気も高まるし一石二鳥だから。


 今回、エルたちは表に出ないような策と動きで織田の順調な戦況・戦略を支えているんだ。もっとも織田一族や重臣クラスになると気付いているだろうが。


 ウチの陣に来た信長さんは、金色野砲を使わないことに少し残念そうな表情だ。


 でも、本当にこの後に今川との戦が起きても不思議じゃないからね。温存出来るものは温存しないと。


「しかしこれで焙烙玉を撃ち込まれたら、堀や塀など意味がなくなりますな。しかも、やめさせたくても己たちの堀や塀が邪魔で出来ないと……」


 投石機は三河に来てから何度か練習している。本證寺は堀と塀に囲まれた城のような寺だが、それを無視して攻撃出来るからね。


 まともな籠城はできないだろう。


 しかもこれをやめさせるには、寺から打って出て、山門の前に陣取る三河衆と美濃衆を突破してウチの陣まで攻めてこないといけない。


 矢盾はたくさん用意したから、弓矢では崩せないしね。


 信長さんのお供として一緒に来た森可成さんが、そんな状況にえげつないとでも言いたげな表情で投石機を見ていたのは、気のせいだと思いたい。




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