第418話・仏の顔と虎の顔
Side:織田信広
安祥城は信じられぬほど賑やかになった。父上から始まり、参陣の一族はすべてが安祥城に滞在することになったからな。
城内は楽観致す者と、そんな気抜けた者を戒める者に分かれておる。
だが、ここまで情勢が織田に優位になったのは、すべて父上と久遠殿が、ずっとこの日のために備えておったからだ。
わしはそれを知っておったからこそ、ウルザ殿たちに策を求めたのだ。
ただ大変なのはこれからだ。今川ばかりではない。本證寺は三河ばかりか東海の国々での本願寺の重要拠点だ。本願寺がいかに出るかで難儀なことになるやもしれぬ。後始末と今後を考えたら頭が痛くなるな。
「しかし父上。本證寺の扱いもそうですが、荒れ果てた本證寺領の扱いも……」
「あそこは本願寺次第であろう。本願寺が責と労を
まさか父上がこの期に及んで一向衆にそこまで配慮するとは。いささか甘すぎるのではないだろうか?
「甘いと思うか?」
「はっ、一度大人しくなっても、また蜂起する
「それならばそれで構わん。いや、蜂起してくれればいい」
父上はわしの考えておったことを察したのだろう。ニヤリと意味深長な笑みを浮かべて、まるで蜂起してほしいと言いたげなことを口にされた。
理解出来ん。父上はなにをお考えなのだ?
「わからんか。まあ仕方なかろうな。ただ、これは他言無用ぞ。わしはいずれ寺社には武力を持たせぬようにしたいのだ。そのためには、寺社には理不尽な蜂起を幾度かしてもろうた方がやり易いのだ。寺社から武力を取り上げる大義名分になるからの」
「なんと……」
「此度のことに願証寺からの僧兵を入れなかったのもそのためだ。本来は仏に仕える者が殺生することが禁忌なのは知っておろう。それが日ノ本ではいつの間にか寺社が武力を持ち、平気で人を殺めるのだ。まあ、武家が争いに寺社を利用した過去もある。
寺社から武力を奪うとは……そんなことが出来るのか?
「治安維持と一馬は言うておったな。寺社や領民が武力を持たなくてもよい国を作るのだ。警備兵はその先駆けだ」
「父上。その……、左様なことが出来るのでしょうか?」
「三郎五郎よ。一馬たちが来て三度目の冬だが、その前のことは忘れてはおるまい? 織田がここまで大きくなり一向衆と今川を圧倒すると誰が思うた?」
確かにそうだ。誰が僅か数年で織田がここまで大きくなると思うたか。しかもほとんど戦をせぬままに。
「一馬の考えておることの
「父上!?」
「こればかりは一馬にも出来まい。一馬は新しき世を創るのは得意でも、古き世を終わらせることには向かぬ。わしか三郎がやらねばならぬ。まぁ、みておれ。三河の一向衆が大きな顔をする日は二度と来ぬ」
父上にはすでにこの戦の遥か先の世が見えておられるのか。
今や仏と異名を持つ父上は、久遠殿という日ノ本の外を知る者と出会い変わった。
虎と恐れられた父上の牙がなくなったわけではない。もしかすると以前より鋭い牙を隠しておるのやもしれぬな。
Side:河尻与一
本證寺領から西に向かう狭い山道にわしは来ておる。共におるのはジュリア殿とすず殿とチェリー殿と久遠家の兵が五十名ほど。
あまり知られてはおらぬようだが、ここを抜ければ尾張に逃亡出来る道らしく、我らはここで逃亡する本證寺の僧と僧兵を捕らえるために来ておる。
「しかし本当に、ここに来るのですか?」
共に来ておる者は武芸大会で優勝した柳生殿を筆頭に、久遠家でも精鋭と言える者ばかりだ。
昼時、陣中飯である握り飯を食べながら、わしはここで待つ疑問をジュリア殿に聞いてみた。
「南はウチが流した、願証寺からの兵が来るって噂で持ちきりだからね。東に行くか、西に行くしかない。戦がないのは西だからね。織田領が平和なことは連中も知っているだろう」
偽の噂でかく乱して敵の退路まで読むとは。坂井大膳如きでは相手になるはずがないな。
わしが今回ジュリア殿の与力として三河に来たのは、幾つか理由がある。
大和守家の重臣だった者は、すでにわしひとりになってしまった。近頃、そんなわしのもとに弾正忠家に不満を抱く旧大和守家の者が、集まるようになってしまったのだ。
所領を削られはしたが、殿に許された大和守家の重臣はわしだけだったからな。連中の気持ちがわからんでもない。
だがわしはすでに弾正忠家の家臣だ。大和守家の頃に戻りたいとも思わんし、大和守家の者たちを束ねる気もない。
そんな不満を抱えた連中と一緒にされたくはないのが本音だ。
あれから二年。前の身分を捨てるためにも、そろそろ一介の武士として働きたかった。
久遠家は旧大和守家の者を避けておると聞いておったので仕えるのは無理だと思うておったが、仕えるならばわしを破り、生かしたジュリア殿の下で働きたかった。
結果から見ればあっさりと認められた。
大和守家の旧臣嫌いだと言われておった久遠殿があっさりと承諾したのには驚いたが、後で聞いたところ、家柄を笠に着た愚か者が多くて断っておっただけだと聞いて納得した。それと共に、家柄を
そんな連中が今はわしのもとに集まって困っておると明かしたら、
「来たのです!!」
冬の寒さが少しこたえるなと思うておったら、木の上に登っておられるチェリー殿が逃亡してくる者を発見したようだ。
身軽なようでするすると木に登って握り飯を食っておったのだが、目がいいというのは本当らしい。
「さぁ、やるよ。抵抗したら遠慮なく斬り捨てていいからね」
「はっ」
敵は十人ほどで僧と僧兵ばかりだ。
あれだけ信徒を動員して扇動しておきながら、不利になったら真っ先に逃げるとは卑劣な者め。
「そこの者たち、いずこから来ていずこへ行く? これより先は織田領だ」
「わ、われらは関東から来た者だ。京へ上るために旅をしておる。通されよ」
道を塞ぐように草むらから現れた我らに、僧と僧兵たちは明らかに動揺しておる。
関東の名を出したのはとっさのことであろう。三河訛りが抜けておらぬわ。
「悪いが織田は本證寺と戦中でな。検分のために同行願う」
「断る! 拙僧を疑うとは己ら仏罰を下すぞ!!」
「やれるものなら、やってみるでござる!」
「くっ! 小娘が!! 押し通る!!」
すず殿は仏罰が怖くないらしい。それはいいが小柄なすず殿が前に出ておるせいで、僧兵どもが勝てると誤解して武器を構え、襲い掛かってきたではないか。
「やあっ!!」
しかし、すず殿も武芸の腕前が凄まじいな。自身はかすり傷ひとつ負わずに、ひとりで腕が立ちそうな輩を三人も瞬く間に倒しておるわ。
足元が悪い山中だというのに。たいしたものだ。
「とりあえず近くの陣地に運んでおいて。大物じゃないと思うけどね」
討ち取った者と捕らえた者は近くの陣に運び、一揆に反対した本證寺の僧に
ジュリア殿の指示で兵たちにより運ばれていくが、恐らくは小物であろうな。
とはいえ本願寺との交渉の種にはなる。
この戦、すでに勝敗よりも戦後の沙汰に焦点が集まっておる。今川とこのまま戦になる虞もあれば、戦後の沙汰次第では今度は願証寺が、
織田としての理想はこのまま三河の寺領を潰すことだが、難しかろうな。
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