第359話・偽物
Side:久遠一馬
梅雨も半ばを過ぎているし、今年の夏に向けて新商品を売ることにした。懐かしの蚊取り線香だ。
「これは薬として売るべきと思いますが」
品物自体は去年から持ち込んで知り合いに配って試してもらっていたが、今年からは販売することにした。
エルとメルティと湊屋さんや資清さんと一緒に値段や販売戦略を考えることにしたが、湊屋さんからは薬として売るべきだという意見が出た。
この時代もお灸は町医者や寺社の治療の一環だからかな? ちなみにケティたちの病院でもお灸と鍼治療はしている。結構評判がいいらしいよ。
ちゃんと猪の形をした陶器の蚊取り線香用の容器も、常滑焼きがある佐治さんに作ってもらったからセットで売る予定だ。蚊取りのブタさんじゃなくて、蚊取りのイノさんだよ。
「これ、しってるよ!」
「これはウチで作ったんですよ。今年も清洲には献上したので使ってくださいね」
「うん!」
というかお市ちゃん。ウチの会議に普通に参加している。しかも去年のこと覚えてるのか最近見たのかわからないが、どうも蚊取り線香を覚えているらしい。
嬉しそうに知ってると喜んではしゃいでるね。
座る場所は相変わらずエルの膝の上がお気に入りらしい。大きな胸が気に入ってたりして。まさかね。
「でもこれって領民には売れないだろうなぁ。武士なら売れるかな?」
「武士ばかりではありませぬ。寺社にも売れまする。久遠家の名があれば不足するほどでございましょう」
季節商品なんで出し惜しみしてもしかたない。尾張と大湊で大量に売りさばく予定だが、蚊帳と違い消耗品だからね。生活に余裕のある人しか買わないだろう。
ただ湊屋さんは売れると自信を持ってるみたい。
この時代は元の世界よりも自然が豊かな分だけ虫が多いし、家の気密性もあまりないのでよく蚊がいる。おかげで蚊取り線香の評判はいいんだけどね。オレの知る快適さには及ばないが、我慢出来ないほどでもないのがちょっとね。
とはいえ久遠家はすでにブランドと化している。金色酒の偽物が畿内では出回っているほどだ。
「これが金色酒? なにを混ぜたんだろう」
ああ、その偽金色酒を今日は畿内から忍び衆が手に入れてきた現物がある。試しにとみんなに出してみたが、金色というかなんか濁った茶色というか変な色だ。
「これが金色酒とは……。毒ではないようですが……」
資清さんは匂いを嗅いでその味を確かめるように少し飲むが、すぐに顔をしかめて明らかに不味いと言いたげだった。
一応ケティの検査では毒ではない。
「噂でございますが、いかにも南蛮酒という酒を混ぜておるとのこと。御家の焼酎と類似する酒のようでございますが、本当に入っておるのかは判りませぬな。ほかにも濁り酒やなにやらを混ぜてもとの味をわからなくしておるとのこと」
これの密造元は畿内だ。もっと言えば堺になる。湊屋さんが調べた情報を教えてくれるが、とにかく既存の酒ではないものを金色酒として売って儲けている商人がいるらしい。
「粗悪な私鋳銭と偽手形と続いて偽金色酒か。堺は相変わらず商売が汚いこと」
「金色酒が手に入らず堺は困っておりましたからな。自尊心が高い連中でございます。顧客たちに手に入らぬとは言えなかったのかと」
堺には少数だが本物の南蛮人も来ているはずだ。金色酒の秘密がバレてもおかしくないんだけどね。実際に欧州といっても広い。たまたま知らないのか、教えてやるほどお人よしじゃないのかはわからないが、まだバレてないみたいだね。それに、知っていても本物の金色酒を飲めなければ分かりっこない。
さすがに湊屋さんも呆れ気味だが、ただ遅かれ早かれ偽金色酒が出るのはオレたちも湊屋さんも理解していた。
ただ堺は反省とかしてないのね。
まあ、織田家を尾張の田舎者と馬鹿にしている連中だ。実際には堺の中にも温度差があり融和を考えてる商人はいるが、一部の者が足を引っ張っている。まぁ、融和を考えている商人もオレたちが譲歩するのが当然だと思っているし。
「ふふふ、いいじゃないの。これは使えるわ。堺は織田の金色酒の偽物を売っている。諸国に喧伝するべきだわ」
「メルティ。喧伝って、あまり騒いでこれ以上争えば、畿内に巻き込まれないか?」
「どのみち対立は避けられないもの、いえ始まっているわ。堺の評判を落として信用をなくすのは織田の大きな利になるわ」
オレは堺に呆れていたが、エルの膝の上のお市ちゃんにあやとりを見せていたメルティは、これを機会に堺を叩くべきだと言い出した。
まあ堺からすると悪いことをしてる認識はないんだろうしね。むしろオレたちが密貿易をしてるとか、自分たちの商いを盗んだとか悪者にしてそう。
現時点だとウチが堺に譲歩する価値も意味もないんだよね。
以前に決めた堺の私鋳銭との交換比率も、現時点で織田領と斎藤家と伊勢の大部分が同じレートで交換していて、どさくさ紛れに六角家も交換比率を合わせているんだよね。
伊勢は北畠が織田に従うような話に少し騒いだらしいが、結局は利を選んだらしい。商いで織田と対立しても誰も得をしないからね。直接的な領地の対立もないし。
伊勢の商人は強かだ。自分たちが前面に出て堺や畿内と対立まではしたくないようだが、織田には逆らえないと言いつつ喜んで交換比率で歩調を合わせている。
まあ堺の件は三好長慶が京の都を制して、事実上の三好政権を樹立すれば動くかもしれないが。とはいえ畿内が安定して、織田に三好が圧力を掛けるとまではいかないだろう。
六角バリアーがあるし、三好も畿内を完全に制圧しているわけではない。堺とウチの争いにどこまで関わってくるかと考えれば、そう無理難題は言ってこないだろう。
「長い戦いになりそうだなぁ」
「どのみち堺とは対立するのは分かっていたんだから、今から力を削いでいく必要があるわ」
まあこの手の策はメルティに任せよう。メルティが言うようにいずれは対立すると分かっていたし、商い関連も改革しなくてはならないんだ。
今日のお昼はオムライスらしい。前掛けを着けてスプーンを握るお市ちゃんの表情がキラキラしている。
この時代だとトマトケチャップが原材料のトマトの収穫時期である夏場しか作れなくて貴重だから、オムライスも貴重な料理になっちゃうんだよねぇ。
「おいちい」
特に今日は半熟卵のふわトロオムライスだ。これは食中毒の危険性があるのでウチ以外では清洲城でも食べられないだろう。城の料理人にも基本的に火を通すように教えているしね。
「姫さま。口もとについていますよ」
乳母さんがお市ちゃんの口元についたトマトケチャップを拭いてやると、お市ちゃんはにっこりと笑みを浮かべて食べ続ける。
このトマトケチャップもエルの自家製だ。程よい酸味と卵の濃厚なまろやかさが相まって美味しい。
ご飯ももちろんチキンライスで、鶏肉と玉ねぎが入っているオーソドックスなものだ。卵とケチャップとご飯は最高の組み合わせかもしれない。
熱々のチキンライスに、ふわトロの卵とケチャップを一緒に頬張ると幸せな味がする。
一緒に飲むのはさっぱり目の野菜の洋風スープだ。これもまた合うんだよな。
お市ちゃんばかりではない。オレもエルもすずとチェリーたちもみんな笑顔で食べている。
ウチだとたまに食べる元の世界の洋食だけど、この時代の人には信じられないご馳走になる。家臣や奉公人のみんなも喜んで食べてくれているだろう。
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