第358話・暗闘
Side:???
「いい加減、吐いたらどうだ?」
「……何度も言った……だろう。わしは素破では……ない」
駿河の今川領で捕まって、すでに十日。わしはもう駄目かもしれん。
甲賀の貧しい家に生まれて畜生呼ばわりされてもなお、この歳まで生きてこられたのは家族がおったからだ。
その家族とともに尾張の久遠様を頼り働いて、もうすぐ半年になるという頃に敵に捕まってしまうとは……。
父や母は心配するであろうか。妻や娘は泣いてしまわぬか。
戻れぬことを許してほしい。
ただ、家族の将来について心配はしておらぬ。甲賀とは違うのだ。久遠様は皆を守り、きっと戦などない世にしてくだされる。わしはその礎となるのだ。
「もう、殺したらどうだ?」
「それは止められておるのだ。正体を明らかにするまでは殺すなとの指示だ」
この十日、わしを拷問しておったのはどうも国人の配下のようだ。素破如きに随分と拷問をすると思えば。今川の指示か? それともこの者らの主の指示か?
そもそもわしは村々に薬を売っておっただけのこと。捕まる理由などない。
拷問でもう、まともに歩けぬな。仮に助けが来たとしても逃げ切れまい。だが命を粗末にするなというのは久遠家の掟。それは守らねばならぬ。
それにせめて最後までわしが掟を守ったことを、逃げたわけではないことを仲間に知らせたい。
「……誰だ」
星すらも隠れておるような闇夜に、突然牢屋に入ってくる人の気配がした。
全身黒づくめの者たちだ。まさか、助けか? そんなはずはない。ここは駿河だぞ。それに尾張から来たにしては早すぎる。
「助けに来たわ。よく頑張ったわね」
「わしはもう駄目だ。歩くことも出来ん。殺してくれ」
本当に助けが来たとは。しかも女だ。何者だ?
「問題ないわ。さあ、いくわよ」
「すまぬ。本当にすまぬ」
女に背負われたわしは牢を出ることが出来た。涙が止まらぬ。この敵地でまさか助けが来るとは……。
もう梅雨だというのに夜風が冷たい。
国人の城からいとも簡単に救い出されたが、途中で止まったかと思えば見知らぬ集団に囲まれた。
味方は五名。敵は二十から三十人はおるであろうか。駄目だ。わしがおっては逃げきれん。助からぬならせめてわしが時間稼ぎをせねば。
「やはり来たな。久遠家の影の衆よ」
影の衆とは、なんだ? 久遠家に仕えておるがわしも知らぬぞ?
「あら、なんのことかしら?」
「久遠家には人知れず素破を守る影の衆がおるということ、すでに知っておる」
「そう。なかなかいい名前ね。なら今度からはそう名乗ることにするわ」
わしが前に出て囮になろうとするが、背負う者が降ろしてくれん。そればかりか四人がわしを守るように布陣すると、女が一人で刀を抜き敵と対峙する。
馬鹿な。この人数を一人で戦う気か!?
「死ね!」
多勢に無勢だ。敵は囲むように一斉に仕掛けてくるが、女はただ者ではない。しかし敵も相当な腕利きばかりだ。何故こんな連中がわし如きの救出に動き戦うのだ?
「ぐわっ!」
「なっ……」
なにも出来ぬ不甲斐なさを嘆きながら思わず目を閉じるが、聞こえてきたのは男たちの命が果てる声ばかりだった。
信じられん。わしを背負った一人を除き、僅か四人ですべて斬り捨てておるではないか!?
何者だ? まさか今巴の方様か!? あのお方ならあるいは……。
「任務完了ね」
いや違う、今巴の方様のお声ではない。
「お見事」
敵は
「此度のこと感謝致します。よしなにお伝えください」
新手の者に女が感謝の言葉を伝えるとその者は去ってしまい、わしはそのまま背負われて暗闇の中をどこかに急ぎ運ばれる。
それにしてもわしを背負いながらこれほど速く走れるとは。背負うのも女だ。本当に何者であろうな。
「あれは……」
「ここまで来れば、もう大丈夫よ」
もうすぐ夜明けという頃になると海に出るに至ったが、船が見えておる。
あれは……、南蛮船だ。津島に留め置かれ、久遠様が使っておられる船だ。
まさかあれでここまで助けに?
「よく頑張ったわね。もう大丈夫よ」
船に乗るとすぐに船は出発した。そこでわしを助けてくれた者たちがようやく覆面を取ったが、まさか奥方様たちだったとは。
久遠様の奥方様の中でも容姿は目立っておられたお方だ。日に焼けたような黒い肌をした奥方様。
「うわ、酷い傷ね。すぐに治療してあげるわ」
わしを背負っておられたのは同じく肌の黒い奥方様だ。こちらは薬師の方様の弟子だと聞いたはず。御名はヒルザ様。お二方は時折尾張に来ては、のんびりしておられただけのお方だったのだが。
「まさか奥方様に助けられるとは……。なんとお礼を申し上げればよいのか……」
「いえ、貴方は私たちをおびき出すために捕らえられたのよ。ごめんね。以前にも何人か捕まった仲間とか逃げ出していた人を助けたから、今川は私たちの正体を調べるついでに始末する気だったんでしょう。ただ風魔から敵の策が知らされたからね。助けが間に合ってよかったわ」
船の揺れに身を任せながら、ことの顛末をわしはウルザ様に教えていただいた。
影の衆というわけではないが、ウルザ様とヒルザ様は少数の忍び衆と共に味方の支援と万が一の際の救出を専門に動いておられるらしい。
以前も今川の者に忍び衆が捕らえられた時に救い出したり、今川の素破が逃げた時に助けたりしておるらしい。
だが驚きだったのは北条の風魔とすでに共闘しておったことだろう。
我ら久遠家の忍び衆は多くが甲賀者だ。駿河にはあまり詳しくないが、長年今川と接し、
互いに
「頑張った褒美は後日あげるわ。でも今日のことは他言無用よ。今川家との戦はまだ早いの」
「はっ。心得ております」
「しばらくは傷を癒すように。そうそう蟹江に温泉が出たのよ。そこで休むといいわ」
そういえば久遠様に仕えるならばと、真っ先に言われたな。裏切れば地の果てまでも追っ手を差し向けるが、忠義を尽くすならば敵地でも助けに行くと。
正直大げさな話だとばかり思っておったが本当であったか。
今川との戦はまだ早い。久遠家に仕えておる者ならば理解しておろう。戦はただ戦えばいいというものではない。
綿密な内偵と策にて行うものだ。今川は強大だ。今まで織田が戦ってきた相手とは格が違うからな。
それにしても、まさか新参のわしのために南蛮船で助けに来るとはな。
この船に乗りたいと言っておった娘に自慢できないのが残念だ。
◆◆◆◆◆◆◆◆
久遠家には影の衆がいる。それは同時代の駿河のとある国人衆の手紙に書かれている一文である。
捕まえた素破が忽然と姿を消したとか、追っ手が全滅したなど様々な逸話があったようで、当時は相当に恐れられていたようである。
もっともこれがなにを意味するのかは定かではない。久遠家が情報収集に力を入れていたことは確かであるが、忍びを使っていたというのは明確な証拠はない。
久遠家には甲賀出身の滝川家や望月家が仕えていて、彼らが忍びとして働いていたという説があるが、具体的な信頼出来る資料は残されていないので不明である。
ただし後年の創作ではこの手紙の一文から、滝川忍軍の呼称が生まれ、有名になったのは確かである。
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