第170話・津島の会見
side:久遠一馬
道三一行が去りしばらくすると、信秀さんから急遽お呼びが掛かった。道三と茶を飲むからオレと信長さんに来いということだ。
来る方も来る方だけど、信秀さんも道三と会うことにしたのか。
この時代だと大名同士が会うことはまずあり得ない。それだけ危険なのもあるし、そこで一方が殺されても迂闊だったと言われて終わりだ。
やれやれ。化かし合いは苦手なんだけどな。
「何しに来たんだろうね」
「手詰まりなのを打開したいのでしょう」
急遽、津島の屋敷で正装に着替えて茶会をする大橋さんの屋敷に出向くことにしたが、目的が分からないのが不気味だ。
「手詰まりか」
「大垣周辺は織田領です。それに美濃の国人衆は必ずしも山城守様を望んでいるわけではありませんので。山城守様にできることは多くありません」
オレと信長さんは道三の目的に疑問を感じていたが、エルは予想以上に道三が追い詰められていると指摘する。
確かに戦国時代に来て理解したのは、大名も独裁権なんて無いことだ。それは信秀さんですら変わらない。
尤も現状では独裁権に近い力を信秀さんは持ちつつあるけど。それでも一族や重臣、寺社には配慮が必要だ。
オレはどうも史実のイメージで道三を見てしまうが、この世界の道三は実のところあまり目立った活躍はない。
対外的な戦では
まあ美濃国内の戦だとちょこちょこ勝ってるが、客観的に見ると史実のような評価にはならないと思う。
ということは、史実より道三のできることが限られてるということか?
「会うのは危ないか?」
「問題ないでしょう。ですが念のため、すぐ近くに忍び衆とケティを待機させておきます」
過去に道三は頼芸の弟を毒殺したと言われるし、昨年には守護だった
頼純の奥さんは道三の娘なのに。ちなみに、この娘さんというのが、後に信長さんに嫁ぐはずの帰蝶姫だ。
信長さんは一か八か道三が命を狙うのではと危惧している。
可能性はゼロではないだろうが、さすがにそこまではしないと思う。津島で信秀さんや信長さんを殺して美濃まで帰れるわけがない。
身を捨てて美濃を守るなんてタイプじゃないだろうしね。
ただ、史実では信秀さんが負けた相手だ。エルは万が一を考えて準備はするようだけど。
ほんと、今いる世界が歴史の一部なんだって実感するね。
史実において信長さんは、道三と尾張と美濃の国境の正徳寺にて会っている。
あれも確か道三から声をかけたと言うしね。
この世界で正徳寺の会見はないだろう。その代わりがこれになるのかな?
変なとこでくしゃみとかしたらどうしよう。
場所は大橋さんの屋敷の庭で野点にするみたいだ。
余談だが、信秀さんはあまり狭い茶室を好まない。侘び茶を否定しているわけでも嫌ってるわけでもないが、狭い茶室よりは広い部屋や野外での茶の湯を好む。
茶の湯自体はもう流行はしているが、後世のような厳格な形とルールがあるわけではない。エルに聞いたところ地方や人により形が違うらしい。
茶の湯を完成させたのはあの千利休だというし、それが全国に広まるには豊臣政権のような中央政権で茶の湯が認められ全国の諸大名に伝えられねばならないんだろう。
正直、オレはあんまり茶道って好きじゃないんだよね。別に文化を否定する気はない。
「エル。今日の茶はそなたが立てろ」
「よろしいのですか?」
「構わぬ。そなたは茶の湯の腕前も悪くない。蝮の度胆を抜いてやるわ」
道三より一足先に大橋さんの屋敷に到着したオレたちに対して、信秀さんは驚くべきことを口にした。
てっきり信秀さんか政秀さんがお茶を立てるのかと思ってたんだけど、まさかエルにやらせるつもりだったとは。
なんというか。良くも悪くもオレたちに影響されてない?
「畏まりました」
「せっかく向こうから来たのだ。蝮が同盟相手としていかがなのか見極めようぞ」
信長さんよりは現実を知ってる分だけ目立たないが、余裕というか遊び心があるのは確かだ。
道三一行はどんな顔をするかな?
茶会の参加者は織田家側は、信秀さんと信長さんに政秀さんと大橋さんとオレだ。道三の側は連れてきたお供から人数を合わせたらしい。
互いに名を名乗るが、斎藤家側は信長さんが名乗ると動揺した。
さっきまでオレの隣でたこ焼き焼いていたからね。道三も顔を見たはずだし気づいたんだろう。
まるで史実の正徳寺の会見のように、信長さんは先程までとは違うきちんとした正装に着替えている。尾張の大うつけとのアダ名も知ってるだろうし驚いたんだろう。
余の顔を見忘れたか。なんて言ったら面白いのに。
ああ、ちなみに道三側も正装に着替えている。どうやら着替えを持ってきてたみたいだ。やはり油断ならない人だな。会見が行われる可能性があることまで想定済みか。
「久遠一馬の妻、久遠エルにございます。本日は、私が茶を立てさせていただきます」
会話はない。空気が重苦しい。
しかし、普段は町娘のような簡素な着物姿のエルが急遽武家の奥方らしい着物に着替えて現れ、茶を立てると告げると道三自身でさえもさすがに驚いたのか顔色が変わった。
さっきウチの屋台で働いてるエルたちを見るまでは南蛮人なんて見たこともなかっただろうしね。
それがこんな重要な茶会で茶を立てる。道三はそれをどう見るかな?
屋敷の外から聞こえてくる祭りの賑わいとは別世界のように、こちらは何も動きがない。
真剣なのは分かる。お互いに命懸けの茶会だからね。
エルが立てたお茶をみんなが静かに飲む。
茶菓子は羊羮だ。用意してなかったから、売り物の羊羮を持ってきたんだよ。
「美濃守殿を守護に戻そう。それで如何か?」
「こちらに異存はない」
どれくらい時が過ぎただろうか。
お茶もすっかり飲み終えてお代わりが欲しい頃になると、道三がようやく口を開いた。
美濃守とは
織田と斎藤の懸案は二つ。大垣の扱いと元守護の頼芸の扱いだ。
斎藤側としては大垣は取り戻したいが、織田側には美濃の守護家である頼芸がいる。この場合どちらに正統性があるか微妙なんだよね。
道三の斎藤家も元々は美濃の守護代の家系だ。道三が家を乗っ取ったみたいだけど。
和睦にしろ同盟にしろこの二つを片付けねばならないが、主導権は完全に織田にあるんだよね。
史実では形の上では対等な同盟だったんだけど。
折れたのは道三か。
美濃は土岐頼芸のもとで大垣周辺を織田が治め、他を斎藤が治めるとなるのかな。
とはいえ道三の影響力は史実より落ちてるしね。まだまだ騒動の種は尽きないと思うけど。
はてさて、どうなることやら。
――――――――――――――――――
津島の会見
天文17年。六月十四日。
津島天王祭の日に尾張の織田信秀と美濃の
事の経緯ははっきりしていない。
しかし両家は信秀の尾張統一以前から和睦の交渉をしていたことは確かで、この会見もその一連の交渉の一環と思われる。
同席した者として織田信長・平手政秀・大橋重長・久遠一馬の名が残っている。
信秀は同席を茶の湯でもてなしたようで、茶を立てたのが久遠エルだというのも特筆すべきことだった。
評定衆とは言え家臣の妻が織田家と斎藤家の会見の席を任されたことは、当時の常識からは考えられず後世において様々な憶測がされている。
一説にはこの会見自体が久遠エルの美濃獲りのための策であると言われていて、後世では有名だが確かな歴史的な証拠は何もない。
そもそも会見の内容は伝わっておらず、成果も含めて謎のままになる。
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