第162話・お藤騒動
side:
「何故、久遠様はそれほど某を疎まれるのですか!」
殿の命により酒問屋に対して絶縁状を渡して、家臣の実家が抱えておった借金の清算を済ませようとしたが、やはり素直に納得せぬか。
調べてみたらこの借金は数年前からあり、利息の支払いすら遅れ気味だった。特に贅沢をしたわけでも散財したわけでもないが身内の不幸などで作った借金のようだ。
元はとある寺が貸しておって、そこまで取り立てを厳しくしておらなんだようだ。しかし目の前の酒問屋がその借金を買い取りして妹を嫁に要求した。
特におかしな話ではない。ようある話なのだ。恐らく殿でなくば問題になどせぬであろう。
「何故それをその方に言わねばならぬ。誰と商いをされようが、それは殿の勝手だ」
ただこの酒問屋は旧大和守家の坂井大膳と
旧大和守家に多額の銭を献金したり貸し付けたりしておったからな。寺と武家の双方にいい顔をして、領民からは無理矢理に相場よりも遥かに安い銭で米を始め何もかも買い叩いておった。
下手な武士より権勢があったのは確かであろう。
それが大和守家が滅び貸した銭が全て返ってこぬばかりか、織田の大殿には見向きもされぬことに苛立ち騒いでおるうつけだ。
「なっ!? それはあまりの言い種ではありませぬか!」
「その方が今まで何をしてきて何と言っておったか。ワシが知らぬとでも思っておるのか? 守護様を
それにこの男は口も軽く悪い。
遊女屋に出入りしては守護様や織田の大殿の悪口を自慢げに語る癖がある。
坂井大膳が健在ならば多少のことならば問題ないが、大和守家が滅んで以降も散々悪口や愚痴をぶちまけておるらしい。
遊女屋も以前とは違い大殿に見向きもされぬこの男を迷惑に思っておろうな。
「二度は言わぬ。銭は持参した。証文を渡して娘を連れてこい」
話して通じる男ではない。これで応じねば潰すとはっきりと示さねばならぬ。
「某、久遠家家臣。太田又助。殿の命によりそなたを迎えに来た」
「太田様……何故」
「このようなところの嫁になっては、そなたのためにならぬ。弥彦殿も家族も心配しておる。さあ、帰ろう」
男は暫しワシを睨み付けてから、証文と無理やりに奪った娘を連れてきた。
娘の表情は暗い。あまりいい扱いではなかったのであろう。
「今後は、二度と久遠家とその縁の者に関わることを禁ずる。直臣ばかりではない。郎党やその親戚縁者も含めてだ。破れば一族根絶やしにする。そう心得よ」
連れてきた供の者に娘を連れて先に外に行かせると、ワシはうつけに最後の一押しをする。
ただの脅しではない。殿は家臣の家族がこのような形で利用されたことに珍しく不快そうな表情をなされた。
温和で甘いお人だが、家臣や郎党が傷つき不幸になることは逆に不思議なほど嫌がられるからな。
「ありがとうございました」
「礼ならば殿に言われよ。そなたはしばらく兄の弥彦殿のところに住むがいい。しかるべき時が来たら、よき縁談を取り計らうと殿も仰せゆえ心配するな」
酒問屋を出ると娘は明るい表情で笑みを見せてくれた。
那古野に帰る途中で話を聞いたら、殿が取り引きをしてくれねば殺してやると脅されておったようで怖くてたまらなかったらしい。
農民の娘のようだが器量は悪くない。
村に返せば出戻りと言われるであろうし、那古野の屋敷で奉公させるべきだな。
久遠家には若い独身の者が多いので縁談の相手には事欠かぬであろう。
「そういえば、名を聞いてなかったな」
「お
さて、残る問題はあの酒問屋が大人しくなるかだが……。
なるまいな。
織田の大殿に潰す口実を与えるだけであろう。
side:お藤
遊び呆けていた兄が織田様のご家臣の下で働きだした。
最初聞いた時には冗談だろうと村の誰もが笑っていました。
確かに兄は織田の若様とつるんでいましたが、身分が違いますし礼儀作法も知らぬはずです。
それが那古野の久遠様というお方の家臣となったと、突然身なりを綺麗にした兄が家に帰ってきて話したことも、正直なところ半信半疑でありました。
事の真相が村に伝わったのは冬のことでした。
兄が久遠家のケティ様のお供で、村に流行り病の治療に来た時です。
村の者の中には兄が盗賊にでも手を貸しているのではないかと言っていた者もいましたが、彼らの驚いた顔は今でも忘れられません。
正月にはお酒や餅に魚まで持って帰ってきた兄に、両親は本当に喜んでいました。
それがつい先日のことです。あの酒問屋の笹屋さんが家に来たのは。
数年前に祖父母が病に倒れて祈祷を頼みましたが、残念ながら亡くなり葬式を出した時の一連の借金の証文が何故か笹屋さんの手に渡ったようです。
目的は兄が仕える久遠家に取り入るため。
笹屋さんの噂は私でも知っております。
以前の清洲でご重臣だった坂井様のもとで好き勝手していた御用商人です。自ら
清洲ではお武家様も笹屋さんとの争いは避けると噂を聞いたことがあります。それが変わったのは久遠様が仕える織田のお殿様が清洲を治めるようになった頃だったといいます。
織田のお殿様は大変慈悲深いお方で病の治療を無料でしてくれたほどのお方。笹屋さんは取り入ろうとしましたができなかったと評判です。
しかも笹屋さんが扱うお酒は、久遠様の造る新しいお酒に負けて売れなくなったとのこと。
清洲の町衆も笹屋さんには、思うところがあったのでしょうが。
「ごめんね。弥彦に知らせてすぐに借金を返せないか頼んでみるから」
父と母はごろつきを従え証文を持つ笹屋さんには逆らえずに、私は笹屋さんに連れてこられました。
怖かった。
役に立たなければ殺して見せしめにしてやると語る笹屋さんが怖かった。
早く兄が助けに来てくれるのを願い待っていると、意外なことに助けに来てくれたのは兄ではありませんでした。
太田又助様。
兄のような農民ではなく元は守護様に仕えていた本物のお武家様です。
私は久遠様と太田様のおかげで、那古野にある学校と呼ばれている学問を教えるところで奉公することになりました。
本当に本当に良かった。
聞けば借金は久遠様が立て替えて下さったようです。私と兄で奉公して返さねばなりません。
これからは死んだつもりで頑張ります。
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お藤騒動。
現代では歌舞伎の演目の一つとして有名な話である。
久遠一馬が悪徳商人に無理やり拐われた家臣の妹を取り返すために乗り込む話である。ただし、歌舞伎では一馬が直接乗り込み悪徳商人相手に大立ち回りをしてるがそれは創作である。
この件は信長公記の作者である太田牛一が残した、久遠家記にある事件を基に創作した物である。
本当の事件は太田牛一自身が、一馬の命で家臣の妹であるお藤という女性を取り返している。
商人の評判が悪かったのも確かなようだが、商人が久遠家に取り入るために家臣の妹を借金の証文を形にして買ったのが真相になる。
尤もこの件は一馬の逆鱗に触れたようで、絶縁状を叩きつけたことは真実である。
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