第136話・織田分国法
side:北条氏康
「して、尾張の様子は?」
「はっ。津島・熱田を中心に近隣から商人が集まっておりまする。また清洲・那古野では町を広げておりまして清洲では城の改築もする様子。織田弾正忠殿は仏と領民に慕われておりますれば、今のところ安泰かと思われまする」
ふむ。織田は思った以上にやるの。今川が気にするはずだ。
去年の暮れ頃からか。西から来る船が徐々に増え始めたのは。織田に南蛮人が仕官した。そんな噂が届いたのはもう少し前であったが。
「噂の金色砲とやらは分かったのか?」
「申し訳有りませぬ。警備が厳重で忍び込めませんでした。されど南蛮渡来の武器だということは確かなようでございます」
酒や砂糖や絹織物など織田から運ばれてくる物は関東でも評判だが、冬の流行り病の折に薬まで売って寄越したのは少し驚いておる。
「そちらしくないの。小太郎」
「されば、久遠家は甲賀者を厚遇しておりまする。特に滝川家は久遠家の重臣として織田弾正忠殿の覚えもめでたいようでございます。加えて甲賀望月家も正式に召し抱えたようで。これ以上調べればこちらの素性が割れまする。それでも良ければすぐにでも」
「甲賀者ならば銭で口を割らぬか?」
「難しゅうございます。身分の低き家臣の郎党や素破の子や年寄りまで、あまねく面倒を見ておりますれば」
付け入る隙はないか。素破の子や年寄りまで面倒を見ておるとは。物好きな。
しかも織田からは、今川には売っておらぬ鉄砲も売ってもよいと書状が来ておる。今川を牽制してのことであろうが。
「駿河守。いかが思う?」
「
「確かに尾張とぶつかることは無かろうな」
金色砲とやらは気になるが、無理をしてまで調べるわけにもいかぬか。せっかく向こうから誼を通じようとしておるからの。
叔父上も織田との誼を深めるに賛成のようだ。
こちらとしては領国を固めるのが先だからな。 今川も油断ならぬし、上野の上杉もいつまでも大人しくしてはおらぬであろう。
織田が西から今川を圧迫すれば、こちらはその分西を気にせずに済むか。
「幸い、織田は馬をよう買っておる様子。こちらからは馬を出せばよろしかろう」
「そうだな。そうするか」
織田には尾張統一の祝いに馬を贈ったが、返礼にと関東ではなかなか手に入らぬほどの絹織物が届いた。
明や南蛮からの荷はあるのであろうが、馬は木曽や関東の方が良き馬がおる。
鉄砲・玉薬と馬の交換なら悪うはあるまい。
side:久遠一馬
王珍さんが帰ると織田家では、新たな節目を迎えようとしていた。
織田分国法がいよいよ発表されることになったんだ。
――――――――――――――――――
領内の命令は全て弾正忠家の許可の下で行うこと。
弾正忠家は全ての命令を朱印で決裁すること。
領内の関所は弾正忠家の許可の下で行うこと。
武家の婚姻は弾正忠家の許可の下で行うこと。
武家の養子猶子の縁組は弾正忠家の許可の下で行うこと。
弾正忠家は領国の防衛の責任を持つこと。
弾正忠家は全ての領民の最低限の暮らしを保障すること。
全ての領民に対して領国内の移動と職業選択の自由を保障すること。
目安箱の設置をすること。
目安箱を勝手に撤去または開けない。また投書を妨げないこと。
領内における不正は直ちに知らせること。
武家は借財又は貸付の際には弾正忠家に届けを出すこと。
――――――――――――――――――
代表的なのはこれくらいか。
後は訴訟関連の法などがあるが、こちらはこの時代の法をあまり逸脱した物はない。正直なところ訴訟関連は下手に扱い方を変えると混乱と泥沼になりかねない。
内容が過激になったのは信秀さんの意向で、全ては中央集権のためだ。
家臣に対する負担と規制ばかりではなく、弾正忠家の義務も明確にしたのは少し驚いたけどね。
領地の防衛と領民を食わせる代わりに命令に従え。一言で言えばそうなる。
現状では領内統治は今川や北条の方が上だ。織田がこれ以上大きくなる前に明確な統治法が無ければ、領内の改革の障害になりかねない。
ただしこの法は今のところ尾張のみの施行で、美濃の大垣近辺と三河の安祥近辺は除外されている。
そもそも美濃には美濃の守護が居るので、織田家が実効支配しているとはいえ分国法までは出せない。三河は守護が不在だけど自称守護代やら一向宗やら松平家やら実力者が居てちょっと面倒。信秀さんが三河守なんだけどね。
それと今回の分国法から漏れたのは寺社と商人だ。寺社と商人への適用についてははっきり明言してない。
寺社に関しては現時点で法で縛るのは難しい。織田に従い協力もしてるが、特権意識が強いからね。
寺社領に関しては農業や農村改革の導入時が、絵踏みになる可能性が高い。新しい農法や農作物を植えるには織田のやり方を受け入れる必要があり、それをタダで与える予定は今のところない。
まあ津島神社と熱田神社は別格の扱いになるだろうけど。
寺社領は中央との兼ね合いもあるから、当分放置になるだろうね。
あと分国法とは別に朱印についても朱印法として法制化する予定。
信秀さんの朱印が最終決裁印になり、以下信長さんと担当者の印が設けられることになる。
信秀さん不在や病などの際には、信長さんの朱印での代行を認める。
担当者は奉行として正式な役職になる予定で、文官の仕事になるだろう。
個別の案件は奉行と配下の文官で行い、信秀さんと信長さんが決裁をする形だ。
朱印法の草案はエルが作り、細かい権限については信秀さんが決めた。
中央集権化しながらも権限を配下の文官に任せるという仕組みは、織田家の発想にはないものだ。
この先織田が大きくなるには、文官の増員と経験を積ませることが必要不可欠だからね。
組織の体系化はやっていかないと。
分国法と朱印法に明確に反対する者は居ないだろう。嫌なら出ていけの一言で終わるからね。ただ守らない者や、よく理解しない者は多いだろう。
実際最初から厳格な運用は無理なのは明らかだろう。
瀬戸近辺の連中や独立意識の高い者は、明確に拒否はしなくても有名無実化するだろうね。
オレたちと一緒に分国法を作った文官衆も、今までのやり方を変えない者は多いだろうと言ってた。
極端な話だけど人や銭を出せという方が、まだ従う可能性がある。自分たちの領地を自分たちで好きにして何が悪い。
そんな意識は当分消えないだろうことは考えなくても分かる。
こちらも農業改革の成果などで従わせるしかない。
従わない人も、そのまま織田に謀反を企てるとかじゃないからね。要は戦には従うが統治は口を出すなという者だろうと言っていたし。
織田分国法はこれからが始まりになる。
――――――――――――――――――
織田分国法
天文17年に織田信秀により制定された尾張国の分国法になる。
同時代にすでに分国法があった今川家や、領内統治において進んでいたと言われる北条家を参考にしたという。
時を同じく行われた検地は北条家が先であり、同時代に織田家が近隣諸国の内情を詳しく調べていた証とも言われている。
ただ織田分国法には当時としては画期的な領民の移動と職業選択の自由を保障した条文や、領国の防衛と領民の最低限の生活を保障することも明文化するなど独自色の強い部分もある。
領民の移動と職業選択の自由に関しては久遠家の献策のようで、統治能力のない者から逃げ出す領民を取り込む策だったと思われる。
尤も全体的に見ると急速に拡大した領地をいかに織田家が管理し治めるかに腐心した内容で、独立意識が強く謀反や裏切りが多発していた時代の苦労を偲ばせている。
この頃の織田家は久遠家に命じて新しい試みを幾つも試していたようで、それらの実現には織田家による強い支配が必要だったと後の識者は語っている。
歴史的に見て織田分国法は、中世武家社会の変革の先駆けと見る者も居る。
なお分国法の原本は失われているが、写しが現代にも残っていて重要文化財に指定されている。
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北条幻庵
通称・駿河守
史実で97才まで生きたと言われる人。北条早雲の子
風魔小太郎
風魔一族。いわゆる忍者の頭領とされる人。
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